08

 雄英体育祭は、早くも午後の部を迎えていた。全員参加の障害物マラソン、それからマラソンの上位数十名からなる騎馬戦。骨抜はそのどちらも真剣に取り組んだが――物間はB組が良い成績を残す為、四十位までを合格の目安として走り第二種目にこそ備えるべきだと主張したが、骨抜他数名はそれを拒否した――結局騎馬戦で敗れてしまった。両手が塞がっていた為に全力を出し切れなかった、などと言い訳をするつもりはないが、同じ騎馬を組んだクラスメイトの能力を存分に発揮させてやれたかと言われると、心底悔しい。
「だがよう……」
 そう言って、どこか苦しげな表情をする鉄哲に、骨抜は「良いんだって」と念を押した。「お前がガンガン突っ込んでってくれたから、俺らは頑張れたんだって。な。それに、塩崎だって頑張ってハチマキ取ってくれたじゃん」
 嫌な思いさせて悪かったねと骨抜が言うと、塩崎茨はふるふると首を小さく振った。
「それにさ、お前らじゃなかったら俺らだってこんなにも簡単には引き下がんないよ」
 なあ、と泡瀬に振れば、彼は「そうだぜ」と力強く同意した。俺達の分も全力で頑張ってくれよと泡瀬が言うと、塩崎は深々とお辞儀をし、鉄哲は再度の男泣きをした。


 乱れた息を整えながらも、骨抜は覚悟を決めて抽選箱に手を入れた。先に走っていた生徒が――確か、A組の生徒だった筈だ――「背脂って何なんだよ!」と叫んでいたのが聞こえてしまった為、正直なところかなりの不安を抱いていた(彼は結局お題をクリアできず、最下位に終わっていた)。「……マスク?」

 後から走ってきた生徒達が、それぞれ手にした難題に慄いているのを肌で感じながら、借り物競争の最中、骨抜は客席を仰いだ。――雄英体育祭はセキュリティーの問題から、一般の観覧は禁止されているが、その反対に一部の職に関わる人々が大勢招かれている。つまり、ヒーローだ。
 骨抜が今立っているそのすぐ前の観客席にも、様々なヒーローが座っている。“マスク”というお題は、彼らのコスチュームを借りれるものなら借りてみろということなのだろう。
「おーっと!? 1B骨抜、逆! 走! そっちにゴールは無いぞーッ!?」
 午前の部と違い、このレクリエーションでは“個性”の使用は禁止されている。その為、骨抜は自分の足だけでグラウンドを全力疾走しなければならなかった。プレゼント・マイクの実況も耳に届いていたが、構っている余裕は無い。
 恐らく、ヒーローのコスチュームを借りてくるのがこのお題の狙いなのだろう。それは骨抜だって解っている。しかし観客席にヒーロー達が居るとは言っても、全員が着脱可能なマスクをしているわけではないし、そもそもはいそれと貸してもらえるようなものではないだろう。素顔を隠すヒーローのマスクは、彼らの代名詞。観客にしろ、講師にしろ、快く貸してくれるような相手を探すのはかなりの時間ロスだ。しかし骨抜には当てがあった。「――名字!」

 普通科の生徒達が集まっている観客席の前まで走ってきた骨抜は、跳ねる心臓に咽込みながら彼女の姿を探した。幸いにも名字はすぐに見付かった。驚いたような様子で、眼下の骨抜を見下ろしている。「名字マスク! マスク貸してくれ!」
 通じていないのか、彼女が反応を返すまでに少し掛かったが、それでも彼女は的確に理解してくれた。急いでマスクを外し、骨抜の方へと放り投げる。もちろん綺麗に届く筈もなく、客席の真下へ向かってひらひらと落下していったが、骨抜は上手くキャッチした。サンキュー!と叫ぶや否や、再び踵を返してゴールへと向かう。
 百メートル近くもの距離を全力でシャトルランするのは、流石の骨抜でもかなりの重労働だった。ゴールに滑り込んだ時には、呼吸も上手く行えなかったほどだ。しかし動き出しが早かったこと、そして借りた物がかなり軽い部類だったことで、一位こそ逃したものの、骨抜は無事に借り物競争二位という結果を残した。


 レクリエーションでの出番が終わった後、骨抜はB組の友達と一旦別れ、普通科E組の観覧席に向かっていた。名字に借りたマスクを返さなければならなかったからだ。もっとも、走ることに必死で持ち方に気を付けることをすっかり忘れていた為、握り込まれたマスクは無惨にもぐしゃぐしゃになっていた。一応、元通りにしようと――皺を伸ばそうとはしたのだが、折り目がついてしまっていることは否めない。彼女がこれを再び付けることはないだろうが、謝りには行かなければ。
 名字は後方の観客席に一人で座っていた。幾度目かも解らない微妙にもやもやとした気持ちを感じながらも、骨抜は彼女の隣に腰掛け、「よ」と声を掛けた。
 普段と違い露になっている彼女の口が、小さく開きかけたものの、結局何の音も発することなく閉ざされてしまった。
「ありがとね、借り物ん時、マスク貸してくれて」
 骨抜がそう言うと、名字は黙って頷いた。「それでさ、その……」
「走ってる時、持つ方まで気が行かなくて……」すっかりくたびれてしまったマスクを取り出すも、名字の表情は変わらなかった。「その、ごめん」

 名字は暫くの間何も言わなかった。借り物競争の次の競技が終わり掛けになっても、大逆転が起きてスタジアム中が大歓声に包まれても、骨抜の手の中にあるマスクを見詰めたままだ。
 厚意で貸してくれたものを使い物にならなくして返したのだから、いくら使い捨てのものとはいえ、彼女だって良い気はしない筈だ。それは解っているし、当然だとも思うのだが、何も言わない彼女に対して骨抜は言いようのない不安感を抱き始めていた。しかしながら、それがどこから来るのかも解らない内に、彼女が「……ふ」、と声を漏らしたことで、すっかり掻き消えてしまった。
「ふ……ふふ」
 それから彼女はたっぷり二分間、静かに笑い続けた。時折、合間合間に「骨抜くん」とか、「そんな真剣な顔」とか、そういった言葉が挟まれる。彼女が何を言いたいのか、はっきりとは解らなかったが、少なくとも骨抜が心配するようなことは何一つなかったようだった。
 名字がツボに嵌るとこうなるのだなと思う反面、段々と恥ずかしさが募っていく。
「……そんな笑うことなくない?」
「ふ、ふふ、ごめ」
 ごめんと言いたげな仕草をしつつも、尚も笑う名字。前の席の生徒達――名字のクラスメイト達がちらちらと此方を振り返ることも、骨抜の羞恥心を煽った。


 くしゃくしゃになったマスクを受け取った名字は、ただ「ありがとう」とだけ言ってポケットの中に仕舞い込んだ。
「別に……」
「……ふふ」
「まだ笑うつもりなん?」
 ふふふと忍び笑いを漏らした名字に小さく溜息を吐きつつ、「俺も」と小さく言った。此方を見る名字に、骨抜は言葉を続ける。「俺も、さっきは名字がすぐ気付いてくれて助かった。ありがとうね」
「けどよく俺が自分呼んでるって気付いたな。おかげで助かったけど」
「ん……」
 彼女は口を開きかけては閉じ、また開きかけては閉じた。普段、彼女の口元はマスクに隠されているが、彼女が返答に間を要する時、いつもこんな風に口を開け閉めしているのだろうかと少し思う。
 名字は無言のままジャージのポケットに手を伸ばしたが、今はくしゃくしゃになったマスクしか入っていないからだろう、すぐに手を元に戻した。携帯を探そうとしたのだと、骨抜はすぐに察した。「――えと」
「骨抜くん。応援」
「それは、昨日聞いたけど……」
「私、応援してた。骨抜くん」
「……俺のことずっと応援しててくれたから、ってこと?」
 ぶんぶんと頷いてみせる名字に、骨抜は何と言っていいか解らなくなってしまった。ありがとう、と言ったのが、果たして彼女に聞こえたのかどうか。
 名字は、「本選も応援したかったな」と独り言のようにぽつんと呟き、骨抜は出場枠を鉄哲達に譲ったことをほんの少しだけ後悔してしまった。

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