スクラロースの道標

 ロドス・アイランド製薬に引き抜かれてからも、名前のやることは以前とさほど変わらなかった。試行、試行、試行、試行、試行、試行、それから試行をし、そして試行をする。エステルをふんだんに扱えるのは良いが、前の職場よりも数段こき使われているような気がしてならなかった。もちろん相応の給金は出るし、直属の上司に当たるドクターが理性をかなぐり捨てて実務に当たっている以上、名前が休むわけにはいかないので、何とかやっているのだが。
 エンジニアの名前は常に脳味噌をフル回転させていた。そこで必要になってくるのが、適切な糖分の補給作業だった。以前はブドウ糖の少量をそのまま喉の奥に流し込んでいたのだが、エンジニア仲間にドン引きされたのでやめた。最近のお気に入りは小さく加工されたチョコレート――と言っても本物ではなく、チョコを模した代替品だ。名前のペースで本物のチョコレートを食べていたら、龍門幣がいくらあっても足りない――で、机仕事をする時は常に脇に置いていた。チョコレートは何もしなくても勝手に消えるし、脂質と一緒になっているので脳へ直接届くような気がして気に入っている。あと単純に味が好きだ。
 名前はチョコレートへ手を伸ばしたが、はたとその手を止めた。いつの間にか、残りのチョコレートがかなり少なくなっている。残り二粒。馬鹿な、まだ私はそんなに食べていないのに。

 ――完全に集中力が途切れてしまった。名前は背凭れにもたれかけ、そのまま脱力していく。尻が落ちそうになり、腰にかなりの負担が掛かりそうな体勢になっても、叱る人間は此処には居なかった。名前のデスクに腰掛けたまま、姿を見せたイーサンは、残り二つの内の一つのチョコレートを自分の口に放り投げてから、「ちょっとは休まないと体に毒だぜ」と笑う。
「イーサン……」
「ほい、最後の一つやるよ。特別だぜ」
 此方に身を乗り出し、チョコを差し出すイーサン。名前が口を小さく開けると、彼はそのままチョコレートを差し入れた。名残惜しいのか、指についたチョコレートを舐め取っている。
 ――髪が青いと舌まで青いのか、と、馬鹿なことを考える。
 彼から貰ったチョコレートを、名前はゆっくりと口の中で転がした。しかしながら、すぐに気化して消えてしまった。
「何度も言うけど、イーサン、机の上に座るのやめてくれる」
「おっと。こりゃ失礼」
 軽々と飛び降りたイーサンは、「名前もコーヒー飲むだろ?」と声を掛け、名前が頷くのも待たずにすたすたと備え付けの簡易炊事スペースの方へ行ってしまった。

 イーサンという特殊オペレーターは相当変わっている。名前は実働部隊のことはよく知らないし、鉱石病は専門外なので、彼らの動向にもさして興味は無い。しかしこうして名前の元に盗み食い目的で現れる彼の事を見ていると、まことしやかに囁かれている“イーサンは食べ物目当てでロドスに来た”という噂が、実は噂ではなく真実なのではと思えてくる。わざわざエンジニアの下に訪れ、おやつを食べていくオペレーターなんて、彼の他には居ないのだ。
 彼はかなり食い意地が張っている。こうしてイーサンが姿を消し、名前の元を訪れ、名前のおやつを掠め取っていったのは、一度や二度のことではなかった。名前が糖分補給用としてかなりのチョコレートをストックしておくようになったのも、彼が原因のようなものだ。今日のようにいつのまにか手持ちのお菓子が減っている時は、必ずイーサンの姿がある。

 イーサンはすぐに戻ってきた。彼の手にはマグが二つ。その中には、コーヒーメーカーで半日以上温められたコーヒーが入っている。きちんと椅子に座り直した名前は(以前、そのまま受け取ってひどい目に遭ったのだ)、そのままコーヒーを啜る。美味しくはないというか、いつもの不味い味がする。もっとも別に名前は気にしないし、イーサンも同様だ。彼曰く、「泥を啜るよりは全然美味い」だそうだ。
「イーサンてさ、よくそうして擬態してるけど、疲れないの?」
 名前はそう問い掛けながら、デスクの引き出しの底で眠っていた龍門印の固焼きを彼の元に投げる。器用にキャッチしてみせた彼は、それはもう嬉しそうに頬張り始めた。現金な奴だ。――彼が以前、熱心な術師オペレーター達の検証に、文字通り倒れるまで付き合わされたという話を、名前は確かに覚えていた。
「あんただって、四六時中液晶と睨みあったりしてるじゃねぇか」
「確かに……?」
 はぐらかすイーサンに、名前はそれ以上尋ねるのをやめた。本人が良いと言っているのだから良いのだろう。しかしあんまり不親切だと思ったのか、それとも未だ自身の腕の中に湿気た固焼きがあることを考慮したのか、イーサンは「急に誰かが現れたら誰だって驚くだろ。俺はそういうヤツの顔を見るのが好きなんだよ」と付け足した。「ま、あんたは最近じゃもう全然驚かなくなっちまったけど」
 擬態には色々下準備が必要なんだぜと言いながら、イーサンは名前の手を取った。何をするつもりなのかと彼を見るが、黙って見ているように促される。仕方なく名前は自分の手を見詰めた。イーサンに握られた自分の左手を。
「それがどういう肌触りなのか、どんな温度をしているのか、濡れてるのか乾いてるのか――」段々と、二人の手の境界が曖昧になっていく。「――固いのか柔らかいのか、何で出来てるのか、中に何が詰まってるのか」
 ギュッと、握られた名前の左手。熱く、力強いイーサンの手の感触さえなければ、そこに自分の手があることなど信じられなかっただろう。すっかり消えてしまった二つの手。そこにあると知っているからこそ、よくよく目を凝らせば背景が微かに動いていることに気付けるのだが。ぞわぞわと総毛立つような感覚は、名前の手にアーツが走っていることの証左なのか。
「……な?」
 イーサンを見れば、彼は笑っていた。

「――私、疲れないのかって聞いたんだけど」
「俺がこんなにもサービスしてやったってのに、何てヤツだ!」
 パッ、と、手を放される。当然名前の左手はそのままそこに存在していたし、イーサンの掌だって同様だ。
 俺はめちゃくちゃに傷付いたからこいつは慰謝料としてもらっていくぜ、と、いつの間にかストックのチョコレートまでもを手にしていたイーサンは、そう言い残して溶けるように姿を消した。名前は彼が居た筈の場所を眺め続けていたが、独りでにドアが閉まったことで、彼が既に部屋を後にしたことを理解した。


 今日も今日とて名前は解析作業を続けている。すっかり冷め切ったコーヒーと、補給用の加工チョコレートを傍らに置いたまま。チョコレートはまだ少しも減っていない。もっともイーサンは今日は事務室で缶詰めになっている筈なので、今此処に居るわけがないのだが。次のチョコレートに手を伸ばしながら、ふと思い至って「イーサン、別にいちいち擬態して来なくても、お菓子くらい勝手に食べてもいいんだけどね」と一人ごちた。

 姿を消し、わざわざ艦の端にあるエンジニアの解析室にまで足を運び、そしてお菓子をつまんでいくイーサンに、近頃の名前は全く驚かなくなっていた。驚かなくなっていたのだが、真っ赤な顔で姿を現したイーサンに、「うわ」と声が出るほどに驚いてしまった。
「な、何でバレた!?」
 何で俺が居ることに気付いたんだよ!とわあわあ喚き立てる彼の姿に、名前もイーサンが何故逐一姿を消したままやってくるのか、その理由が解った気がした。

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