汝、ネコと和解せよ

 名前は猫が好きだ。だからシピにそれを聞いた時、なるほどそういう方法があるのか!とかなり感動したことを覚えている。しかしよくよく考えてみれば、名前は確かに猫は好きだったが、自分が猫になってしまうと猫との触れ合い方がかなり変わってしまう筈なので、シピのように同化手術を受けたいとは思わなかった。その件で彼とは少しばかり揉めたが、それでも猫好きの同志として名前達は良い関係を築いている。
「俺を…吸いたい?」

 「猫をだけどね」と言おうとしてから、少し考えて「シピをっていうか、猫のシピをだけどね」と言い直した。
 少し前、シピはとうとう例の手術を受けた。これで、少なくとも見知った彼に会うことはもう二度とないのだろうなと思っていたのだが、どうやら色々と手順を踏まなければならないようで、シピは猫になったわけではなく、首元から猫の身体が貫通しているという異様な風体になって帰ってきた。身体を馴染ませるとかなんとか、説明はしてくれたがいまいち解らなかった。兎も角も、彼は段階的に猫になってゆくのだそうだ。
 最初はギョッとしたが見慣れてしまえば別にどうという事もなく、むしろ、この航路で唯一の癒しになりかけてすらいる。名前はシピと同じ班になるように色々と手を尽くしたし、仕事中に彼に目をやって癒されていることもしばしばある。こうして休憩時間が同じになることも、ただの偶然というわけではないのだ。
 以前シピ(の黒猫の方)を少しだけ触らせてもらったことがあるのだが、ビロードのような手触りに、どこかしっとりしている温かさは本物の猫のようで最高だった。いや、本物の猫は猫であるのだけれども。

 隣に座るシピは、表情こそあまり変わらないものの、かなり動揺しているらしく、そういう可愛がり方があるのだと名前は詳しく説明した。猫の匂いや体温などを顔で感じることで、より猫を間近に、且つ直接的に愛でられるのだと。
 別に嘘は言っていないが、完全に本当のことを言っているわけでもないので、説得には骨が折れた。猫を吸う人間は確かに居るが、かなり局所的な文化だし、少々変態的なことは否めない。しかしながら、最終的には名前の切実な訴えが功を奏したのか、シピは「いいぜ」と承諾してくれたのだった。


 ジジ、と小さな音と共に、フレキシブルアームで出来ている猫のシピの首が長く伸びる。猫のシピの身体は人間のシピの左腕の上を伝い、それからぴょんと名前の腕の中に飛び込んだ。猫なのだから当たり前ではあるのだが、器用なことをするなあと感心してしまう。
「ほら、いいぜ。好きにしろよ」
「あ、うん」
 というか、シピは本当に自分が何を言ったのか解っているんだろうか。「俺を吸いたい」という言葉自体、めちゃくちゃやばいと思うのだが。
 しかし、こんな機会はもう数百年訪れないかもしれない、というそんな邪な思いと、手から伝わってくる小さな命の暖かな感覚に、名前は一切の配慮を捨てた。猫のシピの脇の下に両手を差込み、それからゆっくりと持ち上げる。これがシピだと思うとかなり不味い絵面だが、猫は猫だし猫なら全然まったく問題ないわけで。

 黒猫の腹に顔を埋めると、猫のシピは一瞬びくりと身を強張らせた。しかしながらそれは本当に一瞬で、その後はずっと力を抜いたままだった。時折バランスを保つために手足を動かしたが、本当にそれだけだ。
 猫のシピは厳密には猫ではないので、不安がまったく無かったといえば嘘になる。猫ではなくシピの匂いがしたらどうしよう。それでも匂いは猫そのものだったし、もっと言うとどこか香ばしい良い匂いがした。


 たいへんいやされました、と名前が言うと、シピはやや間を置いてから「そりゃ良かったな」と言った。きっと今の自分の顔はひどく弛みまくっているに違いない。困ったように眉を寄せ、微かに笑っているシピの表情がそれを物語っている。名前が猫のシピの腹に顔を埋め、息を吸ったり吐いたりしている間、シピはずっと口をつぐんでいた。
 自分はあと数ヶ月無賃労働でも我慢できるほどには癒されたけども、シピは本当に、いったいどういう気持ちだったのだろう。
 名前がふとそんな事を思った時、名前の腕の中に居た猫のシピが身を捩り、ぴょんと定位置に――シピの左肩の上に戻った。「それじゃ、次は俺の番だよな」



 猫が吸いたいのなら自分で吸えばいいのでは、と、名前はそんな事を思ったが、彼が言ったのはそういう意味ではなかった。名前がシピを吸ったのだから、次はシピが名前を吸う番だと、そう言ったのだ。

 当然名前は抵抗した。そういうつもりはなかった、怒らせたのならば謝る、こんな事はもう絶対に頼まない、と。しかしシピは「別に怒ってなんかいないぜ?」と不思議そうにするだけだ。確かに名前は今までもシピが何かに腹を立てているところを見たことがなかったし、今だって怒っているという感じではないことは何となく解る。しかし、そうでなければ筋が通らないではないか。可愛い猫なら兎も角、ただの成人女性を吸いたいわけがない。
 言い合いの末、折れたのは名前だった。近い将来、シピは言の葉でしのぎを削る空間に放り込まれるのだから、名前が言い負けても仕方の無いことだった。もっとも今回の場合、それはシピのロジックが特別高いからだとか、反論を封じられたからだとかそういうわけではなく、ただただ名前のシピに対する友好度が振り切れているからというだけなのだが。
 異性の匂いを吸うだなんて完全にセクハラだが、名前だって異性の匂いを吸ったわけだし、そもそもそれを言い出したのは名前なのだから、シピの言うことを断れる筈がない。
 自分が何を言ったのか、解っていなかったのはシピではなく、名前の方だったのだ。

 にこりと普段通りの笑みを浮かべたまま、己の膝を叩いてみせるシピに、名前はじりじりと近付いて、失礼しますと小さく声を掛けてから、恐る恐る彼の膝に跨った。そうして背後から首元に顔を寄せられるだけでも死ぬほど恥ずかしかったのに、いまいちやりにくいからという理由で身体の向きを反転させられ、胸元に思い切り顔を埋められたことで、これ以上ないほど恥ずかしくなってしまった。今すぐコールドスリープしたい。シピの言動に、いやらしさが感じられないことがせめてもの救いなのかもしれなかった。
 居心地の良い角度を探してか、シピは二、三度名前の胸に顔を押し付けるように動いたが(それが何とも猫っぽいのが本当に嫌だ)、丁度良い場所を見付けたのだろう、やがてじっと動かなくなった。それでも彼が大きく息を吸ったり、逆に大きく吐いたりしているのは確かに伝わってくる。きっと、名前の心臓が張り裂けそうなほど脈打っていることも彼に伝わっているのだろう。
「あーこれ、確かに癒されるな」
 そう呟くように言ったシピ。そんな場所で喋らないで欲しかった。色んな意味でムズムズしてしまう。ちなみに、人間のシピが名前を吸っている間、猫のシピはというと、こちらはこちらで名前に頭をぐりぐりしたり、そうかと思えばひっきりなしに舐めたりしていて、本当にどうにかなりそうだ。
 腰の後ろでがっちりホールドされている為、逃げようにも逃げられず、結局名前は、シピが満足するまで彼が自分の胸元で低く喉を鳴らしているのを黙って聞いていなければならなかった。

 実時間にすれば一分にも満たないのだろうが、一生分の恥ずかしさを味わった気分だった。名前を開放したシピは、別段普段と変わらない様子で、「またいつでも言ってくれていいからな」と笑ったが、名前は二度と彼に猫を吸わせて欲しいと頼まないことを誓った。

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