寝屋にて

 ゾーラ族には、元来文字という文化が無かった。水と共に生きるゾーラにとって、全ては流されゆくものだ。紙に書けば濡れて滲んでしまう(もっとも紙という文化も無かったが)し、石に刻んでもいずれは水に削られてしまう。そのため、全ての事柄は口伝で伝えられてきた。儀式も、祭事も、その他の何もかも。ゾーラ族が物事を書き記すようになったのは、ハイリア人と交流をするようになってからだ。

 名前は、本を読むのが好きだ。文字を持たなかったゾーラ族が出した本はまだそう多くなかったが、他の種族は違う。ハイリア人が書いた本も、リト族が書いた本も、ゲルド族が書いた本も、それぞれ特徴があって面白いのだ(ゴロン族でも文字はゾーラ族以上に発達しているが、彼らは石版に文字を刻む為、他地方へ運ぶのには不向きだった)。
 名前は沢山の本を読むため、里を訪れた旅人に手持ちの本と交換してもらったり、何度も里と他地方を行き来する行商人には定期的に面白そうな本を届けてくれるよう頼んだりしていた。ここ何年かはそういった交流も殆どなかったが、ルッタが鎮まったおかげで、名前も趣味の本集めを再開できるというわけだ。
 カーティから新しい本を受け取った名前は、“いつもの場所”に腰掛け、静かに本を読んでいた。里の南東、上階と下階を繋ぐ通路の踊り場。あまり人が通らないので、本を読むにはうってつけだったし、天気の良い日には里全体を見渡すことができた。それに、里の入り口――ゾーラ大橋のその先には、神獣ヴァ・ルッタが聳え立っている。暴走こそしていたものの、やはりルッタはゾーラの守り神だ。あの巨躯を眺めていると、名前はどこか安心感を覚えるのだ。もっともそれは、未だ成人を迎えておらず、里から出られない自分への辟易とした気持ちをどうにか誤魔化そうとしているだけなのかもしれないが。

 ルッタの鼻先から、シラホシガモの群れが飛んでいくのが見えた。あの鳥はかなりの距離を飛ぶというから、もしかするとあの鴨達もこれからラネールの山々を越え、ずっと南で越冬するのかもしれない。
 さて読書を再開するか、と一息ついた時だった。名前は漸く、自分の隣に見知ったハイリア人が佇んでいることに気が付いた。リンクだったから良かったものの、これが魔物だったらと思うと肝が冷えた。もちろん自分の警戒心の薄さも原因の一つではあるのだが、息を潜めてじっと待っているのもいかがなものかと思う。「……こんにちは、リンクさん」
 驚きを悟られませんように――普段通りの声音を出すよう努めたつもりだったが、そんな足掻きもリンクにはお見通しのようだった。こんにちはと挨拶を返したハイラルの英傑は、微かに笑っていたように感じられた。


「どうしたんですか? 僕に何かご用だったのですか?」
 栞代わりの鱗を挟みこんでから、名前はそう尋ねた。もっとも、名前以外誰も来ないような、こんな辺鄙な場所に用がある筈もないのだが。思った通り、リンクは頷いた。
 聞けば、ジアートに頼まれて、ゾーラの石碑を巡っているそうだ。ゾーラ史を一つに纏めたいのだという。確かに石碑は里の各所に散らばっていて、不便といえば不便かもしれなかった。数千年後、いくつかの石碑だけ見付かって、捻じ曲がった歴史が伝わっても困ってしまう。しかし本に纏めておけば、そんな事態も防げるだろう。
 成る程と思う反面、何故わざわざ自分の元へ来たのかと名前は頭を捻った。リンクが言うには、いくつかの石碑は見付けたのだが、十ある内の残り一つがどうしても見付からないのだという。そこで何人かのゾーラに話を聞いたところ、石碑の場所は名前が詳しいから聞いてみるといいと言われたのだそうだ。確かに名前は全ての石碑の場所を覚えていたし、彼に手を貸してやるのは吝かではなかった。名前は頷いた。
「けれど、わざわざ僕のところまで来なくても、ジアートさんは大体の場所をご存知だったのではないですか?」
 名前がそう尋ねると、リンクは少しばかり眉を寄せて、彼の案内は大雑把過ぎるのだと小さく口にした。くすくす笑いが止まらなくなってしまった名前に、リンクも微かに笑みを漏らした。

 それから、ゾーラの石碑の場所とリンクが訪れた石碑の場所を照らし合わせる作業が始まった。かなり時間が掛かるだろうなと名前は踏んでいたのだが、予想に反し、あまり難しいことではなかった。リンクは、自分が行った場所を正確に覚えていたのだ。
「あそこは、大岩がいくつかせり出しているでしょう? 確か、そのちょうど真ん中辺りにあるんですよ。川からは見えないんですが……ああ、リンクさんはヒレでなく足ですから、山中からの方が見つけやすいのかもしれませんね」
 ジアートに言われた通りオーレン橋の北の崖付近を探したが、第二章の石碑だけがどうしても見付からなかったのだそうだ。確か、あの石碑は道からも少し離れた場所にあった気がするし、足場も悪く探し辛かっただろう。何度も一章の石碑に辿り着いてしまうし、しまいにはリザルフォス達にも白い目で見られていた気がする、と肩を落としたリンクに、名前は小さく笑った。
「もしよければ、僕も一緒にいきましょうか。たぶん、案内できると思いますし……」名前はそう言ってから、「もう遅いので、行くなら明日になりますけれど」と付け足した。
 まだ日が沈むまでには間があったが、慣れない山道に戸惑って石碑を見つけられない可能性もあるし、リンクが石碑の文言を写すのにもかなり時間を要する筈だ。別段急ぎというわけでもないようで、リンクは小さく頷いたのだった。

 話はまとまり、名前は読書を再開しようと思ったが、結局やめてしまった。「リンクさん、もしかして、疲れてしまったのですか?」
 此方へ振り向いたリンクは、ぱちぱちと目を瞬かせていた。
「いえね、リンクさん、いつもお忙しくしているでしょう? それなのにまだそうして僕の隣に座っているから、もしかして疲れちゃったのかなって」
 違いました?と名前が首を傾げてみせると、リンクは肯定するでもなく否定するでもなく沈黙を貫き、やがて名前から視線を外した。図星だったのかもしれない。名前がくすくすと小さく笑えば、こつん、と、決して痛くない強さで頭を小突かれる。
「僕達ゾーラからすると、リンクさんはまだほんの小さな子供なんですよ。休憩したって良いじゃないですか、ほんのちょっとくらい」
 何なら、逃げちゃったっていいんです。
 元々口数の少ないリンクは、名前がそう口にしても何も言わなかった。ゾーラの里に現れ、そしてルッタを鎮めてくれた英傑は、それからも何度かゾーラの里を訪れていた。そしてその度に、新しい生傷を拵えていることに名前は気が付いていた。いったい彼が普段何をしているのかは解らないが、きっと“そういう事”なのだろうという漠然とした予兆はあった。彼は、百年前の続きをしようとしているのだと。
 正義心か、責任感か、それとも復讐心か。この寡黙なハイリア人が、何を思ってそれを為そうとしているのかは解らない。しかしもしそうなら、きっと彼は頑張りすぎてしまう。
 僕が守ってあげますからという言葉に、嘘はなかった。

 結局、リンクは頷かなかった。どこか苦しそうに顔を歪ませて、名前の頭を撫でるだけだ。「……さっきは僕、リンクさんのこと子供って言いましたけど」
「リンクさんは百年お眠りになっていたんでしょう? なら、僕よりずうっとお兄さんだ。だって僕、まだ百年も生きていませんもの。ね、今日は里に泊まっていって下さいよ。僕、一度ベッドってもので寝てみたかったんです。それにリンクさんのお話いっぱい聞きたいな。色々な所へ行かれたのでしょう? オルディン地方では息をするだけで肺が焼けてしまうって本当ですか? 巨大鯨の伝説も?」
 本を手に飛び降りた名前は、それからリンクを見上げた。「ね、リンクさん、今日だけですから」
 名前が手を伸ばすと、立ち上がったリンクは名前の手を握り返してくれた。


 サカナのねや、どうせならと選んだウォーターベッドの上で、名前とリンクは横になっていた。辺りは寝静まり、物音一つしなかった。聞こえるのは、身じろぎした時に生まれるあぶくが壊れて消えていく音だけだ。
 静かに寝息を立てているリンクは、こうして見ると本当に子供のようだった。もっとも、ハイリア人の年齢なんていまいち解らないのだが。凪いだ海のような青い瞳は、いまや固く閉ざされている。彼はきっと、もう名前の手を取ってくれることは二度とないのだろう。ならば今日だけは、何もかもを忘れて眠って欲しい。「……おやすみなさい、リンクさん」



 ――ぱちりと目を開けたのは、自分の目の前に横たわる名前から、小さな寝息が聞こえてきたからだ。ほんの少し体をずらす。実のところ、リンクに睡眠は必要無かった。回生の眠りから目覚めた影響だろうか、一昼夜と言わず、七日七晩活動し続けても、眠くなることはなかったのだ。その時は怖くなって無理矢理休息をとったが、実際には七晩と言わず一月でも、百年でも戦い続けていられるだろう。雷が鳴り止まなかったり、魔物が大勢居たりと、仕方なく宿に泊まる時もあったが、その時はベッドに横になり、夜が明けるのを待つのが常だった。リンクは、もうずっと眠っていなかった。
 リンクは寝息を立てる名前を眺めた。眠りに落ちる迄リンクの頭を撫でていた彼の手は、今はリンクの顔の前にある。小さな手。自分よりずっと長く生きているが、彼はリンクよりずっと幼く、そしてずっと小さかった。

 本当は、彼が自分を守ってあげるからと言った時、ほんの少しだけ考えてしまった。何もかもを忘れ、無かった事にして、この懐かしのゾーラの里で静かに暮らすのだ。魚を獲ったり、リザルフォスを追い返したり、夜光石を集めたり、ミファー像から目を背けたりしながら。
 赦されざることだ、と、そう口にするのは、果たしていったい誰なのか。
 リンクはやがて目を閉じた。夜が明けなければ良いのにと、ふとそんなことを思いながら。

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