きみのものになりたい

 転寮するにはどうすれば良いんじゃったかのう。リリアがだしぬけにそう口にしたのは、学期が始まり、ようやく人心地が着いた頃だった。
 秋の夜長、段々と夜が長くなってきていた。じきに学園は白い雪に覆われることになるだろう。元より静寂を同胞としているディアソムニア寮は、いっそう静まり返るに違いない。茨の谷を思い起こさせるその寂寥感を、マレウスはあまり好んでいなかった。
 うるさいのと静かなのなら静かな方が良いが、静かすぎるのは好きじゃない。
 ふと、例の人の子のことを思い出した。あの変わり者の子供は、あの荒れ果てた廃屋で一人冬を過ごすのだろうか。カードの一枚でも出してやれば、無聊の慰みになるだろうか。人の手で書かれた文字は、何よりも孤独を癒すものなのだということをマレウスは知っていた。
「――何?」
 言葉少なに――人によっては、聊か高圧的な物言いに感じられるだろう――マレウスが尋ねても、リリアは少しも気にしなかった。「転寮にはどういう手続きが必要じゃったかと思っての」
 別に聞き取れなかったわけではない。珍しく寮則を読み直していると思えば、どうやら転寮手続きについて調べていたらしい。転寮。
「他の寮に移りたいのか」
「うん……うん? ……ああ、違うぞマレウス。わしじゃない」
「じゃあなんだ」
 マレウスは、自身が感じた安堵感に気が付かなかった。名前だ、とリリアは言った。名前。
「どこかで聞いた名だな」
「そりゃそうじゃろうな。名字の家の子じゃ」
「ああ」
 名前という名にはあまり馴染みが無かったが、名字という名字には覚えがあった。リリアが代々見守っているという魔法士の家だ。もっともマレウスに言わせれば、見守っているというよりちょっかいを掛けていると言った方が的確なように感じられるのだが。何でも、昔仲良くなった人間が居て、リリアはその男とある種の契約を交わしたのだそうだ。リリアの言動が縛られていないあたり、あまり拘束力のある契約ではないようなのだが、いずれにせよそれが理由で名字の一族を代々見守らなければならなくなったのだという。
 リリアが楽しそうにしているからマレウスも容認しているが、妖精につかれた一族というのはかなり可哀想だ。それに、彼が“見守っている”のはここ数年の話じゃない。――確か、先頃リリアが誰それがナイトレイブンカレッジに入学したと言っていた。それが名前・名字だったということなのだろう。

 これには載っておらなんだ、とリリアは寮則を指さした。
「……転寮には現所属先、転寮先の寮長――」お主の事じゃなとリリアが言った。「――の同意と、学園長からの承認が必要だった筈だ。が、僕らの代には転寮した生徒は居ないから、よくは知らないな。何年か前にはそういう生徒も居たと聞いたが。トレインにでも聞いてみると良い」
「ふむ」
 どうやら、リリアは名前を自身が所属するディアソムニア寮に転寮させたいらしい。しかしマレウスの記憶が正しければ名字の末裔は今年入学だった筈で、となるとつい先日闇の鏡による組み分けを終えたばかりの筈だ。転寮するのは難しいんじゃないだろうか。その事をリリアに指摘すると、「それなんじゃよなあ」と眉を下げた。
「随分とご執心じゃないか」
「そうじゃな、名前はわしのものになったからな」
「……何?」
 今度はうまく聞き取れなかった。何が何になったって? しかし、リリアに気にした様子はなく、仕方なく「リリア」と再度促す。
「名前はわしのものになった」
「……聞き間違いかな、あのリリア・ヴァンルージュが数百歳も年の離れた人の子を迎え入れたと聞こえたが」
「そうじゃ」
 リリアはそう頷いてから、「悪いか?」と思い出したように付け加えた。いいや、とマレウスが答えたのは、リリアを怒らせたくなかったからでも、妖精に魅入られた人間に興味が無かったわけでもなく、ただただリリアのことが愛おしかったからだ。友人として、彼がそうしたいのであればそれに越したことはないし、何事にも犠牲はつきものだ。もっとも、リリアはマレウスにとって友であると同時に、育ての親のようなものでもあった。親のそういったことは全くもって知りたくない。マレウスは考えるのをやめた。
 お主にわからんのなら他の誰にもわからんじゃろう、トレインの奴に聞いてくることにする――彼はそう言い残し、早々に姿を眩ました。マレウスはリリアが消えた方角を見詰めながら、次に名前に会った時は少しばかり気に掛けてやった方が良いだろうかと頭を悩ませた。



 助けて欲しい――リリアにそう言ったのは、名前の曽祖父に当たる男だった。男が頼んだことは、悠久の時を生きるリリアにとってはとても些細なことで、断る理由も無く承知してやった。当然、男は喜んだ。リリアも友達がそうして喜んでいるのを見て嬉しかったし、だから口にした。「お主は代わりに、わしに何をしてくれる?」
 これだけのことをさせられたのじゃ、到底生半な対価では吊り合わんなあ。袋いっぱいの魔法石でもまだ足りん。そうさなあ、お主がいっとう大切にしておるものを貰おうか。

 冗談のつもりだった。友人の願いを叶えてやるのに、対価なんて取る筈がない。確かに厄介事ではあったが、それでもリリアからしてみればほんの些細なことだったし、手間はかかるがさほど難しいものではなかった。それに、仮に何かを引き換えにするとしても、契約は実行の前に結ぶものだ。男に頼まれた時点でリリアは何も言わなかったし、そのまま手を貸してやった。リリアの言葉には何の効力もなく、ただの軽口だった。そのつもりだったのだ。
 名前の曽祖父は、血の気をなくしていた。
 彼は色々と言葉を並び立てた。そんなつもりはなかった、命と引き換えだなんて聞いていない、そうと知っていたらお前になんか頼まなかった等々。挙句、名前の曽祖父は対価は今度生まれてくる自分の息子に支払わせるとのたまった。
 リリアは、自分を怯えた目で見詰める男に頷いてやった。「ならば、お主の息子が十六になった時、わしはそやつを迎えに行くこととしよう」。名前の曽祖父は見るからにホッとしたようだった。それから、リリアは男と疎遠になっていった。
 ほんの冗談のつもりだったのだ。対価なんて要らなかったし、何を言ってるんだよと笑ってくれればそれで良かったのだ。
 十六年経ち、リリアは名前の曽祖父の息子――名前の祖父の元へと現れた。見知らぬ妖精の姿に戸惑っていたその少年は、リリアが昔結んだ約束を持ち出すと、心底怯え切ったようだった。それから、対価は自分の息子に払わせると言った。リリアはそれを承知した。

 同じことは再び繰り返され、名前の番になった。名前が十六歳となったその日、リリアはスカラビア寮を訪れた。予想に反し、名前も、そして相部屋の少年もぐっすりと眠っていた。念の為、リリアは同室の一年生に眠りが深くなるよう魔法を掛け、名前を揺り起こした。名前は寝惚けていたようだったが、リリアが曽祖父と交わした約束のことを説明すると、段々と目が覚めてきたようだった。「わしは困っておるんじゃ、お主の父も、そのまた父も、わしに対価を払ってくれなんだからの」
 別に、何も困ってなどいやしなかった。約束なんてしていないのだし、リリアを縛るものは一切無い。むしろ、いい加減、そんなものは意味がないものだと気付いても良い頃だ。しかし名前の曽祖父を始め、彼の息子達は皆リリアを怖がり、逃げるように対価は息子にと言った。そしてリリアが頷けば、彼らは一様に安堵した顔付きとなった。

 どうせ、この少年も逃げるのだろうなと、リリアは思っていた。別にそれで構わなかった。人間は短命で、やがて皆リリアから離れていく。しかしこの契約の真似事を続けていれば、縁が途切れることはない。友人だった名前の祖父はとっくの昔に死んでいたが、彼の子孫達とこうして何らかの関わりを持てている、それだけで充分だった。
 リリアの話を神妙に聞いていた名前は、「いいよ」と言った。
「そうかそうか、まあお主も……うん?」
 名前はごくごく普通の顔をしていた。むしろ、リリアが驚いたことに対してきょとんとしている。
「わしの話を聞いておったか? お主はわしのものになるんじゃぞ?」
「うん? 聞いてるよ?」
 ――そういえば、名前は怖がってないな。そんな事を思いながら、曽祖父の過ちのつけを払わされることになるのだとか、もう自由に振舞うことはできなくなるのだとか説明を加えたが、名前は「いいよ」と言うばかりだった。
「ひいおじいちゃん――おじいちゃんだって会ったことないのに、ひいおじいちゃんなんて名前も知らないけど――がリリアと約束したんでしょ? だったら良いよ、約束は守らなきゃいけないし、それにリリアならまあ、別にいいかなって」
 リリアは暫く名前の顔を見詰めていた。まったくもって、間が抜けた顔をしている。
妖精を相手に契りを交わすだなんて、あまり良いものではないことなど考えなくても解る筈だ。リリアが名前のことを好きになるのに――彼の曽祖父以上に親しい友になりたいと、そう思うのに――理由は要らなかった。
 スカラビア寮生じゃろう、短慮が過ぎるのではないか。カリムが泣くぞと口にすれば、名前はよく考えたよと微かに笑った。



 転寮には、マレウスが言った通りそれぞれの寮長、学園長の承認と、その他にいくつかの手続きが必要だった。あまり行われないことも関係しているのだろう、儀式の一つ一つがかなりの手間で、正直かなり面倒臭いのだが、名前の為なら手伝ってやるのも吝かではなかった。しかしながら、名前にそもそも転寮の意思がなかったことで、リリアの計画は破綻した。ナイトレイブンカレッジを卒業後、茨の谷に来ることは承知したくせに、寮を移ることは嫌がるとはいったいどういう了見なのか。
 リリアが駄々を捏ねても名前は頷かなかったし、拗ねてみせても笑って眺めているだけだった。冷たい。

[ 173/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -