友達の条件

 予鈴の鐘が鳴り響いた。間もなく授業が始まる。名前はこのままこの教室での授業となる為、このまま座って待っていれば良いが、目の前の男、アズール・アーシェングロットの場合はそうではないようだった。どうやら移動教室らしい。普段であればもう少し粘っていく、もといもう少し勧誘をしていくからだ。
 彼はフーと小さく溜息をつき、眼鏡のブリッジをくいっと押し上げた。
「いいですか名字さん、僕は君に貸しを作りたくない、君は無条件に利益を得ることができる。それの何がいけないんですか」
「いけないって、だってお前、俺が何か頼もうとしても受けてくれないじゃないか」
「当然です。物事にはそれぞれ価値があって、その対価が釣り合わなければ契約にはなりませんから」
 また来ますから、その時までに決めておいて下さいね。そう言い残し、アズールは去っていった。名前はその背に向けてひらひらと右手を振る。アズールくんてば相変わらずッスねえ、と笑っているのは少し離れた席に座っているのラギーで、名前は「ちょっとは助けてくれたっていいだろ」と眉を寄せた。
「シシッ。いやあ、オクタヴィネルの寮長殿に目ぇ付けられたくないんで。名前くんみたいに」
「俺は別に目を付けられてるわけじゃ……」
「またまた、じゃあ、なーんでアズールくんはあんな名前くんに絡んでくるんスか。最近じゃ、休み時間の度に来てるじゃないスか」そう言ってから、ラギーは「まあそうスね」と勝手に納得したような口振りで頷いた。「名前くんは取立てられてるんじゃないッスもんね。マジに何やったんスか?」
「それは……」
 名前とアズールは同学年でこそあれ、寮も違えばクラスが同じになったこともない為――何なら部活だって違う――知り合ったのはつい最近だ。二週間ほど前、飛行術の授業で誤って箒から落ちたアズールを名前が受け止めたことが切欠だった。幸い二人共怪我もなかったのだが、それ以来、アズールはああして名前に絡んでくるようになった。彼曰く、借りを作ったままにしておきたくないのだそうだ。名前がアズールを受け止めた事への対価として、相応の何かを提供したいのだと。
 その事をラギーに説明すると、彼は「フーン」とまるで少しの興味も無さそうな相槌を打った。実際に興味も無いのだろうし、別にその事に対して怒ったりもしないが、それならそれで最初から聞かないで欲しい。やがて本鈴が鳴り、トレインがやって来た事で、この話題はうやむやになった。ラギーはその際「アズールくん、それだけだったらわざわざ毎回来ないと思うスけどねえ」とぼやいたが、特別耳が良いわけではない名前には聞こえなかった。


 オクタヴィネル寮――もっと正確に言えば、モストロ・ラウンジ周辺――の噂はいくつか聞いていたし、実際一年の時にはアズール本人が何か騒ぎに絡んでいたと風の噂で聞いていたこともあって、彼らに対して良い印象は持っていなかった。
 しかしながら、実際にアズールと話すようになって、彼は単に、金銭関係にうるさいだけだということが解った。気の良い奴とまでは言わないが、彼が普段から勉強熱心で、その上で商魂逞しいというだけなのだ。例の騒動だって、アズールが完璧な試験対策を行った上でのものなのだから、その点においては名前はアズールのことを凄いと思っている。何かを対価に何らかの望みを叶える――そんな商売(と、言ってもいいのかは解らないが)をしているのであれば、そりゃ、誰かに貸しを作っておくというのは具合が悪いだろう。別に名前としても彼に対してわざと貸しを作らせたままにしているわけではないのだが、叶えて欲しい望みは浮かばないし、提案したところでアズールに対価と釣り合わないと却下されるのだから仕方がない。
 名前は度重なるアズールの来訪を迷惑に思っていたわけではないし、むしろ、新たな友人として付き合っているつもりだった。

 恐る恐るモストロ・ラウンジに足を運んだ名前を出迎えたのは、リーチ兄弟の片割れ(名前は未だにどちらがどちらなのか、その区別がつかなかった)で、席に通されてから数分後、支配人であるアズールは名前の元へやってきた。「おやおや、初めてのお客様では?」
「よく知ってんね」
「それが仕事ですからねえ」
 名前としては、今の今まで店に顔を出したことがなかったことに引け目を感じてすらいたのだが、アズールはさらりと受け流した。何百人と居るナイトレイブンカレッジの学生で、誰が来たことがあって誰がそうでないかを把握しているというのはかなり凄いことじゃないかと思うのだが、アズールが言うと至極当然のことのように感じられてしまうので厄介だ。「それで?」
 アズールに話を促され、名前はハッとした。「僕に何か御用だったのでしょう。僕も生憎と暇ではないのでね、手短にお願いしますよ」
「その……例の対価の事なんだけど……」
「ああ、その事ですか。漸く決めてくれたんですね。僕もこれ以上、君に借りを作ったままにしておくのは意に反しますので助かります」
 名前がアズールに頼んだのは、友人がアズールと結んだ契約の破棄だった。小試験の対策に、その友達はアズールの力を借りて臨んだらしい。結果として良い成績をとったようだったが、その見返りに彼は今モストロ・ラウンジで働かされている。ユニーク魔法と交換で働いているわけではないし、二週間の期限付きだし、そもそも仮にバイトの業務が多少きつくても自業自得ではないかと思うのだが、名前自身がアズールに何か叶えて欲しい望みがあるわけではない以上頼まれたら断れない。実際今、その友達は影からこっそりと名前達の様子を伺っている。頭に生えているイソギンチャクが何とも間抜けだ。
 アズールは暫く何か考え事をしていたようだったが、やがて「いいでしょう」と言ってパチリと指を鳴らした。たちどころに金色の契約書が現れ、次の瞬間音もなく燃えて消え去った。これで契約は破棄されました、とアズールは言い、確かに友人の頭からイソギンチャクが消えていた。
「どうもありがとう」
「……君も変わった人ですねえ、折角この僕がタダで願いを叶えて差し上げるというのに、わざわざご友人の為にその権利を捨てるだなんて」
「別に、お前に何かしてもらいたくて助けたわけじゃねえよ」
「そうでしょうね」
 やがてアズールは立ち上がると、「ごゆっくり」と言い残して去っていった。多忙の身というのは事実だったようで、彼はその後も他のテーブルを回ったり、ラウンジの従業員に指示を出したりしていた。


 それから数日の間、名前はアズールと顔を合わさなかった。大体にして、元々優等生のアズールと、素行が良いとはいえない名前とでは生きる世界が違うのだ(実際、彼は人魚らしいので文字通り生きる世界は違うのだが、それは別の話だ)。同じ学校に居るからこそ関わりがあるのであって、そうでなければ一生話すこともなかったような人種だろう。殆ど毎日のように会っていたので、些か奇妙な感覚ではあったが、やがて慣れてしまった。

 この日の飛行術は何組かの合同授業だった。五人ずつの班に分かれ、飛び方を軽くテストする。難しい課題が与えられているわけでもなかったのだが、この日名前は飛行術の授業の大半を医務室で過ごすこととなった。かなりの速度で落下してきたアズールが、そのままの勢いで名前にぶつかったからだ。
 上手く受け止められれば良かったのだが、毎回そう上手く行く筈も無く、互いに鼻血を流したり足を引き摺ったりしながら医務室へと向かった。
「あのさあ……」名前が言った。鼻にティッシュが詰まっているので、些か不恰好だが。「勘違いだったら謝るけど、さっきわざと落ちた?」
「………………」
 名前の問い掛けに、アズールは答えなかった。もっとも、その沈黙こそが答えだったのかもしれない。
「……俺もお前も大怪我せずに済んだから良かったけど、何、アズールお前何がしたかったの?」
 何らかの理由で名前がアズールの恨みを買い、その報復としてぶつかられたのかとも考えたが、彼に何かした覚えはないし、そもそもアズールならもっとスマートにやってのける筈なので、その考えはすぐに打ち捨てられた。


 暫くの間の後、漸くアズールが話し始めた。「だって」
「だって、君に借りを作らないと、君に話し掛けられないじゃないですか」
 名前は唖然としたまま、俯いたままでぼそぼそと話し出す同い年の男を見ていた。契約してくれればいくらでも理由が作れるけど名前は自分に取引を持ちかけない、モストロ・ラウンジに来てくれれば話せるけど名前は来ない、もう一度自分を受け止めればまた借りができるのでそれを理由にB組に行ける、けどこのザマじゃ借りにはならない、等々。彼の目元の辺りがかなり赤くなっていて、ギュッと力が入っているところを見るに、マジで泣き出す五秒前のように感じられる。
 言いたいことは色々あったが(「友達に話し掛けるのに理由とか要る?」「えっ、そもそも俺ら友達だよね?」「それとももしかして友達とも思われてなかったわけ?」)、とりあえず連絡先を聞き出すところから始めることにした。

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