ヘレナ・アダムスという少女について

 アダムスさん、と心持ち小さな声で呼び掛けると、ヘレナは一瞬びくりと体を揺らしたものの、振り返った先に居るのが名前だとすぐに察したのだろう、「名前さん」とどこかホッとしたような表情で言った。盲目ゆえに表情の乏しいところのある女の子だったが、その顔には確かに安堵の色がある。
「よかった、無事だったんだね」
「名前さんも、ご無事でよかったです」
 打ち捨てられた病院で、わけもわからないままに始まった“ゲーム”。名前達四人は力を合わせ、過半数が脱出できれば、ゲームに参加した全員が賞金を手にすることができるのだそうだ。しかしながら、既に二人が脱落してしまった。力自慢のウィリアム・エリス、そして頼りの綱でもあった傭兵のナワーブ・サベダーがゲームから降ろされてしまった今、名前達には既に勝ちの目は残されていなかった。ヘレナは勿論、名前も体力がある方ではないので尚更だ。――残ったのが名前ではなく彼らの内のどちらかであれば、まだ策はあったかもしれないのに。
 しかし幸いなことに、七つの暗号機の内の四つは解読が終わっていた。その為、名前とヘレナ、そのどちらかが囮になることができれば、もしかするともう一方はこの場所から逃げることができるかもしれなかった。出口らしき場所は、既に名前が見付けていた(南東に粗末な掘っ立て小屋があり、その近くに硬く閉ざされた鉄の扉があったのだ)。五つの暗号機を解読し終えると、そのゲートが通電し、開くようになるらしい。

「これからどうしましょう、名前さん」
「……そうだな」
 ――たった数日間ではあったが、名前は確かにヘレナ・アダムスという少女に情が湧いていた。
 賞金は確かに欲しかったが――喉から手が出るほど欲しかったが――ヘレナが脱出するのなら、それで良いと思えていた。何故なら、名前の望みはヘレナという存在そのものだったからだ。
 名前達を捕らえようとするあの異形の化け物を最後に見たのは傭兵で、彼が最後に出したメッセージの事を鑑みれば、化け物は名前達が今いる場所と正反対の位置にいる筈だった。まずは、互いに怪我の手当てをすることが先決だ。もっともそれは、ナワーブ・サベダーが嘘をついていない場合に限るのだが。
「アダムスさん」
「はい」
「俺達二人で、あそこに見えてる暗号機を解読しよう。あいつが来るかもしれないけど、そしたらあんたは物陰に隠れてくれ」
「えっ……」
「俺がなるべく遠くまで引き付ける。だからその間に、あんたは解読を進めてくれ。解読が終わったら、あんたは南東……って言っても解らないか、あっちの――」名前はヘレナの小さな手を取り、南東の方角を指し示した。「――方へ逃げてくれ。病院から少し離れた所に小屋があって、その奥に扉があったんだ。多分、あそこから出られるようになる筈だ」
「けど、それじゃ、名前さんは……」
 ヘレナは口を噤んだ。賢い子だから、名前の言葉の意味が解ったのだろう。名前が犠牲になることで、ヘレナだけでも脱出させようとしていることが。
 名前があの怪物から逃げられる保証はどこにもなかった。それどころか、ウィリアムやナワーブが逃げられなかった相手に、名前が敵う筈も無かった。名前はインドア派だし、運動だって得意じゃない。それでも、名前は自分の何もかもを投げ出してでも、ヘレナなら一人で逃げてくれても構わないと、そう思ってしまったのだ。
 ――名前・名字さん、ですか? 夢みたい、私、貴方の大ファンなんです。
 小説家とは名ばかりで、売れない本をいくつか書いただけの名前は、常に貧しい生活を送っていた。御伽噺染みた冒険小説を書いていたが、丹精込めて仕上げた小説より、単純労働で得る日銭の方が余程儲けがあったというものだ。何の為に生きているのか、解らなくなるようなそんな日々。だからこそ、巨万の富を得る為、このエウリュディケ荘園に足を運んだのだ。名前は今まで生きてきた中でファンだなどと言われたことがなかったし、ヘレナ・アダムスと出会ったことで、生きてきた意味がやっと見付かった気がしたのだ。
 あの化け物に捕まったらどうなるのだろう。ウィリアム達がどうなったのか、名前は知らない。なるべく考えないようにしながらも、不安で仕方がなかった。もっとも、ヘレナにそれを悟られないよう努めるのは容易かったが。
「大丈夫、俺は悪運が強い方だし、きっと何とか――」名前は途中で言葉を詰まらせた。目の前の少女が、全くの無表情になっていたからだ。確かに、ヘレナは表情が豊かな方ではない。盲目なのだから当然ではあるのだが、普段であれば、今のようにほんの少しも感情が読み取れなくなることはない。――名前がこの顔の彼女を見たのは、これが何もこれが初めてというわけではなかった。


 荘園にやってきた彼女を案内したのは、誰でもない名前だった。ウィリアムが来た時も、ナワーブが来た時も、その役目は名前のものだったが、それは単に名前が一番始めに来たからというだけであって、自分から買って出たわけではない。しかしながら、ウィリアムは年下の女の子に付き合うのを嫌がり、ナワーブはそもそも名前が言っても面倒臭そうにするだけで承知しなかった。その為、結局名前がヘレナを案内することになったのだ。
 賞金をかけたゲームは、四人が揃わないと始まらない。そう聞いていたので、ヘレナが来た時は、漸く人数が揃ったのだと嬉しく思った。しかし彼女が盲目の身であった為、名前はひどく不安を抱いたことを覚えている。何をさせられるのかは解らなかったが、仮に四人で協力する形であったならば――実際にそうだったが――名前達が不利になることは解りきっていたからだ。もっとも、名前が心配したほど、ヘレナは足手まといにはならなさそうだった。勿論常人と同じようにとはいかないが、盲人とは思えないほどに、その歩みはしっかりしていた。

 始め、ヘレナがそう言った時、名前はかなり訝しんだ。彼女は目が見えない。当然、名前が出した小説も読める筈がなかった。ファンなんですと嬉しそうに――どこか照れたように言われ、ほんの一瞬、途方もない嬉しさが込み上げはしたものの、読めもしない小説をどう好きになるのか、と、どこか冷静な自分がその興奮を押さえ込んだ。
 しかしながら、ヘレナの「母に何度もねだって読んでもらったんです」とどこか恥ずかしそうに打ち明ける姿や、「あそこは感動したんです」と要所要所の感想を言って聞かせる様を見ていると、彼女が自分のファンだと言ったのは本当なのではないかと段々思えてきた。実際、ヘレナは名前の小説の大半を暗記しているのか、数行に渡る描写をすらすらと諳んじせてみせることすらあった。
「雪のように、とか、陶器のように、とか、そういった表現は他の本でも読んだことがありましたけど、枕が破れた時のことを思い出す、なんて初めてでした」
「……そう」
「そうですよ」ヘレナは、どこか笑っているようだった。「私、昔は目が見えたらしいんです。物心つく前だったんですけど、ひどい熱で寝込んでしまって、そのせいで目が見えなくなってしまって……何となくは覚えているんですよ、あれはあたたかい色だったなとか。不思議なんですけれど、名前さんのお話は、その頃のことを少しだけ思い出させてくれるんです」


 どうやら四人の来訪者が揃ったことでゲームが始まるというわけでもないようで、最後の一人であるヘレナが荘園にやってきてから、数日の間、名前達は気侭な日々を過ごした。盲人ということもあり――そして、あとの二人があまり面倒見が良い方でなかったこともあり――名前はその大半をヘレナと過ごした。もっとも、ヘレナが名前と話したがっている風でもあったからだが。
 未成年の女の子と、三十路の男とで話が合うわけではなかったが、彼女が自分の小説について話しているのを聞いているのは、決して悪い気分ではなかった。しかしながら時折、名前は自分が一体、誰と何の会話をしているのか、解らなくなる事があった。「きっと、メアリはとても辛かった筈なんです」
「お家から出られなくて、退屈だったし、悲しかった筈。けれど、彼女を育ててくれた恩師の先生の優しさや愛情が、彼女を変えてくれた。だからヨーゼフと出会った後も、ああして奔放に振舞うことが出来たんです」
「いや、まあ」名前はつい口を開いた。「君は恩師と言ったけど、あの人はそこまでメアリに対して思い入れはないよ」
「サリー先生のことですか?」
「うん。あの人は元々出戻りで、どこにも行き場がなかった。メアリの家は貧乏ではなかったから彼女を雇えたけど、別に頭が良いわけじゃない。頭が良いわけじゃないから人並みのことしか教えられないし、子供だって好きじゃなかったからメアリに対する態度もひどかった。むしろ、彼女でさえなければ、メアリはもう少しまともな――」
「でも先生が居たからメアリも文字を書けるようになったし本だって読めるようになったんですよね?」
「……まあ」名前は肯定した。
「そうですよね。それなら、やっぱりサリー先生はメアリにとって良い先生だった筈です」
 名前が頷いて見せると、漸くヘレナもほっとしたような顔になった。

 ヘレナが名前の書いた小説を一言一句覚えているのは――気味が悪いほど暗記しているのは――事実のようだったが、彼女はその類稀なる空想力故に、行間を読みすぎてしまう節があるようだった。もちろん、書かれていることをどう解釈しようと、書かれていない事をどう補おうと読み手の自由だが、彼女はそれを名前に逐一確認するものだから、当然、作者の名前としては否定せざるを得ない。そこはそういう意図ではないし、主人公はああいう考えて行動していたし、彼はこういうつもりだったのだと。
 名前が内容を補足することで、ヘレナは物語の知らない一面をまた知れたと喜ぶこともあったが、そうでないこともあった。「メアリは、そう、あまり熱心じゃなかった。ドンがどうなろうと――」
「けど、そうじゃないですよね?」ヘレナが言った。
 名前の出す答えに納得できない時、ヘレナからはそれまでの文学少女然とした態度から一変し、ただの我が侭な女の子になった。ひょっとすると癇癪を起こすのではと、そう思えてしまいそうなほどに。喚きもしないし、泣き出しもしないが、その顔からは決まって感情が一切失われる。「あれだけ素敵な子なんですもの、絶対に助けるつもりだったでしょう? そうですよね?」
「……まあ」
 名前がそう呟くと、ヘレナは少しの間の後、決まってにこりと笑うのだった。



 今のヘレナの表情は、その時と酷似していた。名前の言葉に納得できず、我を通そうとしている時の顔に。その顔からは一切の感情が消えている。「……アダムスさん?」
 返事をしないヘレナを訝しみ、そっと呼び掛けた時だった。不意に、ヘレナがその手にしていた白杖を高く掲げ、勢い良く地面に打ち付けた。トン、と鈍い音が、地の果てまで響き渡る。反響定位――もちろん、そんなスキルの名称は知らなかったが、ヘレナが杖を叩いたことにより、名前には遠くに居る化け物の姿を鮮明に捉えることができた。
「……アダムス、さん?」
「――だって、仕方ないじゃないですか」
 ぽつりとヘレナが言った。名前には見えていた。名前達を探して歩いていた例の化け物が、ヘレナの杖の音を聞き、“此方”へと踵を返したのが。「な、何で今――」
 ――ゲームが始まった直後、最初に追い掛けられたのはヘレナだった。ナワーブが陽動を買って出てくれたおかげで、化け物はヘレナを見失い、その後は果敢に向かってきたウィリアムに標的を変えたのだ。では何故、ヘレナが真っ先に狙われたのか。盲人であるヘレナを狙うのは理に適っているが、彼女の居場所が何故解ったのか――当然、奴は聞いたのだ。ヘレナの杖の音を、今と同じように。
 遠目に見えた化け物の姿は最早薄れていたが、その足並みは真っ直ぐと此方に向かってきていた。このままではどちらかが脱出どころか、二人共やられてしまう。名前も、そしてヘレナも。「っ……ヘレナ・アダムス!」

「私だけが逃げたって、仕方ないじゃないですか」名前が大声で怒鳴っても、ヘレナは笑っていた。彼女は表情の乏しい女の子だった。他の人の表情を知らないのだから当然だ。しかし今、ヘレナは確かに笑っていた。頬は上気し、唇は感動に打ち震えていた。その声には蕩けそうになるほど甘い響きがあった。「だって、名前さんが脱出してくれなきゃ、次のお話が読めないんですもの」
 名前は走って逃げ出した。当然、ヘレナはその後を追い掛ける。二人を見つけ出した化け物はまず手近に居たヘレナを殴り付けたが、例の椅子に括ることはせず、そのまま名前をも殴り付けた。あまりの無様な顛末に、最早立ち上がる気力すら湧かなかった。ふと気付けば、すぐ近くにヘレナも同じように地に伏しているのが見えた。もっとも、彼女は今尚微笑みを浮かべている。これでずっと一緒ですね、と、ヘレナは恍惚とした表情で言った。

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