someone’s pigeon

 名前達サバイバーは、基本的にゲームが行われる時間帯以外は何をしても良いことになっていた。食を堪能するも良し、遊興に耽るも良し、惰眠を貪るのも良し、誰かを弔うのも良し。一つだけ課せられているのは、日記を書くことだった。
 名前達を招いた荘園主は余程の物好きなのだろう、日記を書いている限り、少なくともゲームから降ろされることはなかった。一体全体、日記などというものが何の役に立つのか。もっとも、擬似的でこそあるものの、ゲームのたびに殺されるのだからあまり良い気はしないのだが、それでも名前を含めたサバイバーは皆巨額の富を手に入れたかったし、だからこそがむしゃらに日記を書き続けるのだ。
 ようやっと使い慣れてきた万年筆を置き、名前はふうと溜息をついた。内容が指定されていないので、この頃の名前の日記は日記というよりも日々の出来事をただ記録していくだけの帳簿のようになっていた。ゲームで良い成績を取った、エマの育てた花が綺麗に咲いた、掃除用具入れを整頓した、また新たな参加者が来た等々。
 ――これ、後から怒られたりしないかしら。
 名前は少しばかり不安に思った。何の為に書いている日記なのかさっぱり解らないが、求められている事柄から逸脱しているような気がしなくもない。もちろん考えても始まらない。今日はもう寝てしまおう、と、冷め切った珈琲に手を伸ばした時、名前はそれに気が付いた。

 マグに半分ほど残っている珈琲の、その水面がゆらゆら揺れていた。名前が眺めている間にも、その揺らめきは段々と大きくなっていく。地震だろうか。少しだけ身構えたものの、揺れが名前を襲うことはなく、屋敷は常のように静寂を保っていた。それから不意に、とぷんと水音が部屋に響く。背後から聞こえたその不気味な音に名前はすぐさま身を翻したが、それよりも先に大きな何かが名前の口を塞いだ。
 名前が上げた悲鳴は声にならず、白黒無常の掌に吸い込まれるようにして消えていった。
「良い夜ですね、小姐」
 名前の口を塞いだまま、謝必安はそう言って笑みのようなものを浮かべてみせた。


 名前が落ち着きを取り戻し始めたのを見て、白黒無常はゆっくりと名前を開放した。
「あ、あ、あ、貴方、どうやって此処に……!」
「おかしなことを。僕の能力は知っているでしょう、ただ飛んできただけですよ」
 曰く、座標さえ解っていればどうとでもなるらしい。完全に意味が解らなかった。ゲーム以外でハンターがサバイバーの元を訪れるなんて前代未聞だし、夜更けに男が女の部屋に無断で立ち入るのもどうかと思うし、そもそもプライバシーの侵害だ。名前が抗議の声――もっとも、他の部屋の仲間達に気付かれないようごく小さなものだったが――を上げると、白黒無常はうるさそうに「すみませんね」と口にした。謝る気は少しも無いらしい。
「……それで、何の用なの」
「そこまで嫌そうにしなくても――ま、言ってしまうと、貴方に用があるのは僕でなく無咎の方でしてね」
「范さん?」
 謝必安は頷いた。いつの間にか、名前が飲んでいた筈のマグを手にしている。「君達は僕らがワープできる能力だと思っているようだけど、実際それはおまけでね。僕らは人格を入れ替えるついでに移動を行うことができるんですよ。まあ、今回は君の部屋を訪ねるのに使ったようだけれど」
 彼が何の用で名前の部屋を訪れたのかは知らないし、興味も無いのだと謝必安は言った。そして再び能力が使えるようになると、傘を開いてさっさと姿を消してしまった。代わりにその場に現れたのは、黒髪を結わえた范無咎だ。
 むっつりと押し黙っていた范無咎だったが、自分の今居る場所が名前の部屋であり、謝必安が自身の意を汲んでくれたのだとすぐに悟ったらしかった。微かに表情を和らげた白黒無常に「私に用があったの?」と尋ねると、「ああ」と頷く。
「お前、タイピストだと言ったな」
「貴方に言った覚えはないけれど……そうね、確かにタイピストとして働いていたわ」
「手紙を書いて欲しい」
「何ですって?」
 名前が問い返すと、范無咎は不機嫌そうに眉を顰めたものの、「代筆を頼みたい」と再び口にした。

「お前達は、俺達が自在に人格を入れ替えているのだと思っているようだが――」どこかで聞いたような言い回しだなと思いながらも、名前は「ええ」と頷いた。「――実際は違う。俺は必安とはずっと会っていないし、奴が俺と共に在ることも未だに信じられない」
「意思の疎通ができてるわけじゃないってこと?」
「そうだ」白黒無常は頷いた。
 名前達が白黒無常を二人存在するハンターとして警戒してゲームをする様子や、同じ居館に住むハンター達の言葉の節々から、相棒が確かに存在することは知れているものの、実際に認識できるわけではないので未だに半信半疑なのだと范無咎は言った。
 だから、彼に向けた手紙を書くのを手伝って欲しいのだと。
 自分で書いて机の上にでも置いておけば良いだろうと名前が言えば、謝必安が自分が書いたのではないと証明できないと范無咎は首を振った。だから名前に書かせ、且つ名前から直接謝必安に手渡して欲しいのだと。確かに、名前という第三者が彼らの間に入り、名前が范無咎から謝必安への手紙を渡せば、彼らが確かに二人存在するという証明になるだろう。たった一つ、名前が被る迷惑だけを除けばだが。
 しかしながら、仲の良い友人だったという彼らが今、離れ離れに存在していることを思うと、なかなかどうして無下には扱えない。わかったわと名前が頷くと、白黒無常は「恩に着る」と小さく頭を下げた。

「言っておくけど、貴方の母国語なんて書けないからね。英語で構わないわよね」
「ああ」
「それじゃ、どうぞ」
「いや、待ってくれ。打ってくれ。タイプライターで。ペンでなく」
「嘘でしょ、何でそこまで……わかったわよ」
 まさかゲームの外で殴りかかってくるとは思わないが、仮に彼が激高した場合、名前が明日の朝日を無事に拝める保証はないので、名前は渋々商売道具であるタイプライターに向き直った。ゲームの最中は多少解読の手助けをしてくれるくらいのものだったが、こうして向かい合うと、日々の生活に追われていたあの頃が懐かしく思えてくる。
 これだと時間が掛かるわよと名前は念を押したものの、范無咎は時間はいくらでもあると言うだけだった。
「それじゃ、どうぞ」名前が再び口にした。
「……親愛なる謝必安へと――」

 白黒無常は、それから小一時間ああでもないこうでもないと言いながら名前を代筆に付き合わせた。どうやら手紙に認めるべき文句を事前に考えてあったわけではないらしい。もっとも、彼が言うところによれば、謝必安が表に出ている間は自身の意識は無と化しており、何を考える暇も無いのだという。おかげで名前は書き損じた手紙を三度捨てなければならなかったし、気障ったらしい文章を四度も書き直さなければならなかった。
 しかし、手紙の代筆という仕事はなかなか面白いものだった。普段、小難しい文書ばかりを作らされていた名前にとって、誰かが誰かの為に送るものを作るというのは、新鮮だったし、何より心が弾んだ。例えその相手がハンターであろうともだ。心を込めて考えられた一文一文を文字にしていると、不思議と名前も暖かな気持ちになった。
 また、ゲームで見る范無咎は荒々しい益荒男という印象なのだが、彼の口から発せられる詩的な言い回しの数々は、名前に意外性をもたらした。穏やかな表情で、優しい言葉を紡ぐ范無咎に、胸が高鳴らなかったと言えば嘘になるだろう。
「――それから、最後に、そうだな……明け方から夕暮れまで空と雲を眺めている時のように、いつでもお前の事を思っている、と」
「………………」
「……おい、待て、何だその顔は」
「いいえ?」
 名前は素知らぬ顔を取り繕ったつもりだったが、范無咎には最初からばれていたらしい。胡散臭そうに目を細めている。
「今笑っただろうが」
「まさか。気のせいよ」
「おい」
「…………っふ」
「小姐!」
 立ち上がりかけた白黒無常に、「それで? あと何か書くことは?」と投げ掛ければ、無常は不機嫌そうに眉を顰めたものの、やがて「いや」と小さく口にした。名前は頷き、手紙に封をした。蝋が乾いた頃、白黒無常が再び姿を変えた。

 白い姿の白黒無常は、未だ自身が名前の部屋に留まっているのを見て些か驚いたらしかったが、名前の顔を見るとどこか拍子抜けしたような顔になった。
「何なの?」
「いえ別に? 無咎も仕方ないなと思っただけです」
「はあ?」
 彼は何の用だったんですと尋ねてくる謝必安に、名前は黙って封筒を渡した。もっとも渡したというより、返したと言う方が正確なのかもしれないが。
「……これは?」
「手紙よ」
「それは見れば解りますよ。ハンターに手紙を渡す物好きが居ることに驚いているだけです」
「私達からじゃないわ。范さんから貴方への手紙よ」
「無咎から?」
 謝必安はぽかんと口を開けた。名前は頷き、それから手紙を開けるように促す。白黒無常は戸惑っている様子だったが、見てみないことには始まらないと踏んだのだろう、恐る恐る封を解き、やがてゆっくりと手紙を読み始めた。
 無常がその長い指先で封蝋を剥がしてから数分が経っただろうか。「確かに、范無咎からのもののようですね」
「これを無咎が君に打たせたと思うと、少し面白いですね」
「ひどい口振り」
 名前をからかうように微かに笑ってみせる謝必安の顔からは、愛する義兄弟と数百年ぶりに言葉を交わしたことなど少しも読み取れなかった。それほど彼は普段通りだったし、彼が心から穏やかに笑っていることに、名前は気が付けなかった。
「ところで。手紙を貰ったからには、返事を出すべきだと思いませんか?」
「は? ああ、まあそうね……」
「僕もお願いしても?」
「えっ……」名前は少しだけ戸惑った。消灯時間にはまだ間があるものの、名前だって明日にはゲームに参加しなければならないし、さっさと横になりたいというのが本音だった。しかし片方にだけ親切にする形になるのも具合が悪いし、范無咎が言っていたように本当に自分が書いたものではないと判別できないのも気の毒だし、何より依頼という形でありながらもどこか控えめで、むしろ断られて当然といった風情の謝必安をそのままにしてしまうのは心苦しかった。「それは、いいけど……」
「本当ですか? 有難うございます」
 にこり。微笑を浮かべる謝必安に、名前は内心で溜息をつく。新たな紙をタイプライターにセットし、机に向き直れば、白黒無常も名前の隣に座り込んだ。いつしかマグは空になっている。どうやら范無咎が飲み干していったらしい。
「それでは、親愛なる兄弟へと――」


 再び目を覚ました范無咎は、此処が未だ名前・名字の部屋であり、目の前に佇む彼女の手に例の手紙が握られているのを見ると、怒りよりも先に落胆が胸に湧いた。名前が謝必安に手紙を渡さなかったとは思えないし、つまりは謝必安が受け取らなかったということだ。自分と同じように、彼もこの女のことを気に入っていることは解っていた。その名前が渡すのを拒否したということは、范無咎を拒否したことに他ならない。
 俺が思っているのと同じように、彼が自分を思ってくれているだなんて、いつからそんな風に思っていたのだろう。
「お前、渡さなかったのか」范無咎は口を開いた。名前が了承してくれたとはいえ、彼女に迷惑を掛けたことは解っているつもりだった。なるべく苛むような言い方はしないように努めたつもりだったが、己の口から発せられた言葉には確かな怒気が篭っていた。「まさかとは思うが、必安が受け取らなかっ――」
「貴方宛よ!」
「…………俺?」

 ばしっ、と、投げ付けるような勢いで手渡された手紙の宛名には、謝必安でなく、范無咎を示すアルファベットが打たれていた。そして読み始めれば、確かに間違いなく兄弟のものからだとすぐに知れる。もちろん、英語では上手く言い表せないこともあったのか、ところどころ謝必安でなく、彼女の言葉だろう表現も読み取れたが。「……思い返せば、必安は昔からあまり筆まめな方ではなかったな」
「でしょうね」名前が言った。
 范無咎が彼女の部屋を去ってから、二時間近く経っていた。つまり、彼女はそれだけの間、謝必安が手紙を書くのに付き合わされたということだ。彼女の言葉がどこか冷たく聞こえるのも、范無咎の勘違いではないのだろう。
「それで? 満足して頂けたかしら。私はそろそろ明日の準備をしたいのだけれど?」
「そうだな」范無咎はもごもごと言った。「しかし、その、何だ、小姐――」
「いい? 貴方達は勘違いしているようですけどね、私はタイピストであって、郵便屋さんじゃないのよ。もちろん伝書鳩でもないわ。おわかり頂けて?」
「……名前」
 范無咎が彼女の名を呼ぶと、名前はこれ見よがしに盛大な溜息をついた。本当に眠たいのだろう、顔を覆いながら「これで最後ですからね」ときつく念を押す名前に、范無咎は頷きながら「謝謝」と小さく呟いた。

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