アイロニカルな歯車

 荘園に来てまだ日が浅かったが、それでもノートンはこの狂った催しのルールを理解しているつもりだった。出口のゲートを開けられるようにし、自分達が逃げられたら勝ち、そして捕まったら負け。二人だけでも逃げられたらぎりぎり勝ち。だからこそ、ノートンには今なお隣で解読を進める男のことが理解できなかった。
 占い師のイライ・クラーク、空軍のマーサ・ベハムフィール、それから灯台守の名前・名字。イライはこれまでのゲームで何度もアシストをしてくれたし、マーサは得意の信号銃を使って捕まったところを何度も助けてくれた。名前はノートンが初めてゲームに参加した時、ずっと近くで手助けをしてくれた。ノートンが動けなくなった時、助けてくれたのも名前だった。しかし今、イライはノートンの視線をまったく無視し、黙々と解読を続けている。名前がハンターにやられたにも関わらずだ。
 助けに、いかなければ。
 幸いにも、イライは未だ使い鳥を飛ばしていなかったし、彼が手を貸してくれれば名前を助けられる筈だった。マーサがどこに居るかは解らないが、彼女が手伝ってくれれば助かる確率はぐっと上がるし、もしかすると四人揃って逃げられるかもしれない。残る暗号機は二台。ノートンの考えも、あながち的外れではない筈だ。
 しかしながら、ノートンが何度「名前を助けに行って来るから手を貸してくれ」と言っても、イライは頑なに「早く解読を進めるんだ」と硬い口調で言うだけだった。
「何でなんだ、君だって、名前と仲が良かったはずだろう? 今朝だって、一緒に朝食を食べていたじゃないか」
「いいから手を動かしてくれ。名前だってそれを望んでる」
「そんなわけないだろう!?」
「ノートン」
 イライが解読の手を止めた。面布により視界は遮られている筈だが、彼の目はまっすぐとノートンを見詰めている。「いいかい、名前のことは諦めるんだ」
「君が今、助けにいったところで、リッパーは君を無視するだろう。あいつはどういうわけか、名前だけに執着してる。君のお得意の磁石で彼を牽制することはできるかもしれないが、名前はさっき一度立ち上がった。名前を治療して、それから二人で逃げるのは絶対に無理だ。仮に逃げられたとしても、リッパーはすぐに名前を追うし、その過程で君が怪我をしないとも限らない。そうなれば、名前が脱落した後、リッパーは君を追いかけるだろう。勝てるゲームに勝てなくなるのはごめんだ。いいかい、君が今すべきことは、リッパーが名前のところに居る間に、少しでも解読を進めることだけだ」

「……それじゃあ、名前を見捨てろっていうのか」ノートンは力無く言った。
 そうだと頷いた占い師は、再び暗号機に取り掛かった。いつの間にか、残る暗号機は一つになっている。信じられなかった。あの仲間思いなマーサでさえ、名前を見捨て、解読に集中していたのだ。もしかすると、手近の暗号機を解読した後、名前を助けに行くつもりだったのかも――ノートン達が安全に解読を進められたのも、名前が長い間リッパーから逃げ回ってくれていたからだ。いくらリッパーが名前だけを追いかけていたとしても、彼女がすぐに捕まっていては、解読している間に名前が脱落し、リッパーはノートン達の元に来ていたはずだからだ。
 先程解読を終えたマーサも、きっとゲートの方に向かっているに違いなかった。ノートンだって頭では解っていた。ここで自分が名前を助けに行けば、彼女の頑張りを無かったことにしてしまう。
 ノートンは項垂れながら、目の前の暗号機に向き直った。


 鈍いサイレンの音が響き始めた。名前は薄れ行く意識の中でそれを感じ取っていた。今日もリッパーから逃げることはできなかったが、少なくとも、この分ならゲームに勝つことはできるだろう。あとは、荘園で仲間達と再会した時に、ゲームに勝てて心底嬉しいという表情を装うだけだ。
 ――そういえば、ハンターがあいつの時に、ノートンと一緒のゲームになるのは初めてだっけ。マーサとイライが、上手く説得してくれると良いんだけど。
 椅子に括られないまま、こうしてリッパーに見守られながら死ぬのは何度目だろう。少なくとも二回や三回ではない筈だ。近頃では、名前がゲームに参加すると必ずと言って良いほどリッパーが現れるので、ひょっとすると二十回を軽く超えているかもしれない。
 体から血が抜けていくのを感じながら通電の音を聞くのは、決して気分の良いものではなかったが、辺り一面に響き渡るサイレンのおかげでリッパーの鼻唄が遮られることだけは、唯一の救いなのかもしれなかった。

 巨大な爪を持つこのハンターの事を、名前達サバイバーは畏れと侮蔑とを込めてリッパーと呼んでいた。
 いつ頃からだっただろう――リッパーは、どういうわけか他のサバイバーには目もくれず、名前だけを追い掛けるようになった。解読が得意なヘレナや、トレイシーを見付けたとしても、まったくの興味も示さないのだ。そして名前に致命傷を負わせると、そのままチェアに括ることはせず、必ず名前が失血死するのを見守るのだ。
 最初、名前達は何が起きているのか解らずただただ困惑した。ハンターが何を考え、名前達サバイバーを捕らえようとしているのかは定かではないが、リッパーの行動は明らかに異常だった。名前一人を脱落させたとしても、ゲームに勝てないのでは意味が無い筈だからだ。そんな事をするハンターはリッパーだけだし、それは何度でも行われた。

 リッパーがそうした異常性を明らかにしてから、サバイバーの間ではある一つの掟ができた。
 ――名前・名字がゲームに参加し、ハンターがリッパーだった時、名前・名字を助けてはならない。
 当然、名前達全員が話し合って決めたわけではない。反感を示すサバイバーだって居たし、名前がダウンさせられてから、助けに来ようとした仲間も何人か居た。しかしリッパーはそんな仲間達にすら興味を示さなかったし、仮に名前が助け起こされても、執拗に名前だけを攻撃した。誰かが間に入って庇ってくれたとしても、リッパーは煩わしそうにするだけで、名前だけを追い掛け続けた。次第に名前を助けに来てくれる仲間はいなくなったし、名前もそれで良いと思っていた。リッパーが名前だけを見ている間は、他のサバイバーは安全にゲームが進められるからだ。

 何故リッパーがそれほどまで名前に拘るのかは、誰も知らなかった。名前が覚えている限りでは、会ったばかりの頃のリッパーは、他のハンター同様名前以外のサバイバーも攻撃していた筈だし、チェアに括らずただじっと失血死するのを待っている、なんてことはなかった。それがいつの頃からか、異様なまでに名前だけに執着するようになった。


 本来ならサバイバーを括り付ける為の椅子――その椅子に腰掛けたままのリッパーは、ふんふんと鼻唄を口ずさみながらも、名前をじいと見下ろしていた。もちろん彼の素顔は仮面の奥に隠されているので、実際に名前を見ているのかは解らないが。しかしこの纏わり付くような寒気は、彼が名前を見ているからこそなのだろう。
 あの曲はいったい何の曲だっただろう。サン=サーンス?
 いっそ、椅子に括ってくれれば良いのに。もっとも今拘束されたところで、何がどうなるというわけでもないのだが。どうやら無事にゲートを開くことができ、二人は脱出したようだったが、三人目、ノートン・キャンベルだけは、未だゲート前に留まっているようだった。彼が逃げてくれなければ、名前はこのゲームに縛られたままになってしまう。早く逃げて――そう心に念じながら、名前はこの日初めてリッパーに目をやった。
 今日も私達の勝ちね、と名前が悔し紛れに皮肉を口にすれば、リッパーは鼻唄をやめた。「おや、お喋りして頂けるんで?」
「そうですねえ……」リッパーは朗らかに言った。まるで、今ゲートが通電したことに気付いたとでも言いたげな具合だ。その穏やかな声音が、ますます名前の神経を逆撫でする。「まあ、また次頑張ることにしますよ。皆さん隠れるのがお上手だ」
 嫌味なのか、それとも本心からの言葉なのか。名前が答えないのを見て、リッパーは再び鼻唄を口ずさみ始めた。随分とご機嫌らしい。名前はぎり、と唇を噛み締める。
「それやめて。あんたが歌ってると虫唾が走るのよ」
 不意に鼻唄が途切れた。

 影が差した。気付けばチェアに座っていた筈のリッパーが名前のすぐ近くまで来ており、その傍らに屈み込んでいた。背が高過ぎるせいだろう、視界の端に屈んでいるはずの彼の脚が映っている。身動き一つ取れない名前を跨ぐようにしているハンターの姿は、さも獲物を捕らえた蜘蛛のように見えるだろう。「……貴方が」
「貴方が言うべき言葉は、そんなものじゃない筈だ」
 これまで、リッパーは無闇に名前を傷付けるだけだった。その凶悪な爪を振りかざし、幾度も名前の腹を引き裂いた。それが今はどうだ。リッパーはまるで壊れ物を扱う時のように、名前の頬に恐る恐る手を添えている。
 ――怒れば良いのか。蔑めば良いのか。それとも、惨めったらしく命乞いをすれば良いのか。
 哀しみすら滲んだ彼の声に、名前は訳が解らなくなってしまった。泣きたいのは名前の方の筈だ。しかしながら、名前が口を開こうとした時、三人目の生還者が現れた通知が届いた。リッパーに何も問い掛けられないまま、名前は荘園に戻されることとなった。

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