止まぬ驟雨

 バヂッ、と火花が散る。背後からはくつくつと低い笑い声が聞こえてきて、誰のせいでこうなってるんだと文句の一つでも言ってやりたかったが、傘の中に入れてもらっている手前、名前は結局黙々と解読を続けるだけに留めた。
 湖に臨んだ暗号機は、あと四割ほどといったところだろうか。この日も名前達を少しも吊る気が無いらしい白黒無常は、開始直後に名前を見つけてからというもの、ずっと名前の後ろをついてきていた。雨に濡れさせるのは忍びないからだの、また風邪を引かれても困るだのとのたまっていたが、名前が思うに、単に話し相手が欲しいだけなのだろう。解読中にちょくちょく話しかけてくるものだから、調整にも失敗するし、気が散って仕方が無い。
 他のメンバーは無常に近寄りたくないのか、名前と白黒無常が一緒に居ると悟るや否や、名前の方へは一切来る様子を見せなかった。同じ暗号機を解読した方が効率は上がるし、皆だって少しでも早く終わらせたいと思っている筈なのにだ。おかげで、名前はゲームが始まってからまだ一台の暗号機も解けていない。
 暗号機は残り一つ。無常がゲームをする気はないとはいえ、意地でもこの暗号機を解読してしまいたかった。
「ここ、嫌いなんですよね」
「……ここ、って、湖景村のことですか?」
「ええ」
 名前は少しだけ解読の手を止め、白黒無常――謝必安を振り返った。謝必安はどこか遠くを眺めていて、その視線の先を追えば、この村の名の由来でもある湖が広がっていた。暗い水を湛えた湖は、雨空と溶け合い果てが無いようにも、すぐそこで途切れているようにも見える。
「……ふーん、そんなに私達有利のマップとは思わないけど」
「そうですね。君達、すぐに迷子になるから」
「…………」
 言い返せない名前は、再び解読に取り掛かった。しかしその瞬間、村全体にサイレンが鳴り響いた。ゲートが通電したのだ。


「ずっと解読してたのに、一台も解読できないとかあります?」
 そう言った白黒無常の声には、明らかに笑いが滲んでいる。名前は思わず赤くなった。どうやら、小屋の方でも誰かが解読を進めていたらしい。結局、名前はこのゲームで何の成果も上げていないのだ。「ま、五回も調整に失敗していればね」
「あ、貴方が邪魔してくるからでしょう!」
 謝必安は素知らぬ顔だ。名前はこれ以上惨めな気持ちにならないように、「早くゲートへ行きましょう、どうせ今日も優鬼してくれるんでしょう」とすましてみせた。もっとも、無常にはばれていたに違いない。白黒無常は「そうですね」と言いつつ、名前に左手を差し出した。
「え、何?」
「あっちには君のお仲間が向かっているでしょう。向こうのゲートから出ることにしましょう」
 そう言って謝必安が指し示したのは、南側にある脱出ゲートだった。他の仲間が居ると何の不都合があるのかは解らないが、ここで椅子に括られても困るし、名前は素直に頷いた。「けど、向こうまで結構遠いわよ。貴方が良いならいいんだけど」
「だからこうするんですよ」
 名前が「え」と言葉を紡ぐ前に、謝必安は名前の腕を掴み自分の側へと引き寄せた。そしてそのまま名前の腰に手を回す。抱き締められていることに気付いた名前は、「しゃ、謝必安さん!?」と慌てて声を出した。
「しっかり捕まっていて下さいよ、でないと落としてしまうかも」
 傘でのワープ――どろりとしたものが頭上から降り注ぎ始め、名前は尚ももがいたが、やがて二人はとぷんと呑み込まれてしまった。後には未だ灯りの点いた暗号機と、二人分の足跡だけが残された。


 名前が意識を取り戻したのは、白黒無常が移動を終え、南側のゲート前に降り立った時だった。黒い方の白黒無常、范無咎は、自分が名前を抱き締めていることに気付くと「お前……」と呟き微かに眉を顰めたが、何も言わず名前を開放した。彼らの間でどのくらい意思の疎通が行われているのかは解らないが、ゲーム中にあれだけ息の合った攻撃をしてくるのだから、范無咎も謝必安が名前を此処まで連れて来たのだと察したのだろう。
 相手が優鬼だからとゲート前で待機していたのか、それとも単純に近くに居たのか、南側のゲートも既に開いていた。先程ちらりと見えたのはイライだろうか。彼の服はひらひらしているので、遠目からでも解り易いのだ。どうやら、念の為にとゲートの内部で待ってくれているらしい。范無咎も彼が居る事に気が付いているのだろう、ゲート内を気にする素振りは見せたものの、そちらに向かおうとはしなかった。
「……お前」と、范無咎が口を開いた。
「この間あれだけ馬鹿を見たくせに、まだこんな日にゲームに参加しているとはな」
 これまで、謝必安が話し掛けてくることは度々あったが、范無咎がこうして話し掛けてきたのは――親しげに話し掛けてきたのは初めてだった。もっとも、かなり呆れているようだ。確かに風邪を引いた名前は最悪のコンディションでゲームに参加し、晴れだったにも関わらず白黒無常に情けをかけられ、挙句ハッチに落とされたわけだが。
「別に……」と名前は口篭った。「あの、あの日私をハッチまで運んでくれたのは范さんなの?」
 名前の言葉が意外だったのか、白黒無常は微かに驚いたような顔になったものの、名前の問い掛けに答えることはなかった。しかし、名前はそれを肯定だと判断した。「もしそうならありがとう、おかげで何事も無く治ったわ」

「お目出度いものだな」少しの間の後、范無咎はそう言った。
「俺の気まぐれで生かされていることを忘れるなよ、小姐」
「そうね」
 一向に傘から出ようとしない名前を不審に思ったのか、白黒無常は早くしろとでも言いたげな顔で、名前を見下ろしている。雨の日はゲームする気にならない、雨に降らせるのは忍びない、風邪を引くなよ。彼らの言動にはそれぞれ共通したものがある。謝必安の口振りでは彼らは同一人物ではないようなのだが、二人がいったいどういう存在なのか、今の名前にはまだ解らなかった。
「ねえ、さっき、風邪を引いたのに、まだ雨の日にゲームに参加してるなんてって言ったでしょう」
「それが何だ? どうせ俺が負けてやることを見越しているんだろう、お前のその驕りが――」
「雨の日でないと、貴方とこうしてお喋りできないんだもの。だから雨でもゲームに参加してるのよ、私は」
「は……」
 間の抜けた顔をしたハンターを見上げながら、「ああ、貴方達って言う方が正しいんでしょうね」と名前は訂正を入れた。
 解読を邪魔するように話し掛けられるのは嫌だったが、同じ傘の下、暗号機を探して歩きながら、他愛の無い話をするのは好きだった。ぬかるんだ地面も、憂鬱な雨も、彼と一緒なら少しも気にならなかった。もちろん、ハンターが隣に居るという極度の緊張状態を、そうして思い込むことで和らげようとしているだけなのかもしれない。
 黒い痩躯は、名前にとって恐怖の対象でしかなかった。しかしながら、私も雨が好きじゃないのだと打ち明けた時、謝必安は微かな微笑みを見せた。名前は范無咎が笑っている姿も見てみたいと、そう思ってしまったのだ。


 范無咎は何も言わなかった。唖然とした顔で、名前を見下ろしている。沈黙を破ったのは、ゲートの方から聞こえた小さな笑い声だった。――占い師のイライ・クラークは特別な目を持っていて、ハンターの様子を少しだけ伺うことが出来るのだという。つまり彼には、范無咎が名前の言葉に驚き、口を開けている様子がまざまざと見えていたわけだ。「――小僧!」
 突如として怒り狂った范無咎は「お前だけ吊ってやる!」と傘を構え、腰元から例の薄気味悪い装飾の鐘を振り上げた。しかしながら、鐘はがらんと空虚な音を響かせるだけで、何も起こらなかった。本来なら、その鐘の音を聞くだけで、名前達は動けなくなってしまうのだが。今度こそゲートの内側から噴き出す音が聞こえ、名前は范無咎を止めるため、彼の腕に必死に縋りつかなければならなかった。

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