霖雨の庭

 痛いくらいに高鳴る心臓は、恋にときめく乙女のそれでは決してなかった。
 その長身を目視した瞬間、名前は瞬時に心の中で他のサバイバーに謝った。皆さんごめんなさい! 私が戦犯です! ハンターが近くに居る、とそう念じながら、すぐさまそのハンター――白黒無常から背を向け、一目散に走り出す。
 この日のゲームは小雨が降りしきる中、赤の教会で行われた。当然足場は悪く、足腰があまり強くない名前には更に不利だ。白い姿をした白黒無常は足が速いので尚更だった。しかし自身の目的の為、そして志を同じくする仲間達の為、名前は立ち止まるわけには行かず、泥を跳ねさせながら走りに走った。
 ああ、こんなに全速力で走ったら、足跡は早々消えないだろうな。
 ハンターが名前達の足跡で探しているらしい、というのは最近知った話だった。通りで、逃げている途中、彼らがまっすぐ此方に向かってくる筈だ。よくハンターへの牽制を買って出てくれる傭兵の男がそうと教えてくれたのだから、おそらく間違いではないのだろう。ナワーブはその時、足跡がつかない移動方法も教えてくれたが、今の名前には少しも活かせる筈もなかった。
 ハンター達から発せられる特有の緊張感はますます高まってきており、白黒無常が自分を追いかけてきていることが解っていた。せめてここが教会の西側なら、脆い壁を使って撒くこともできたかもしれないし、何ならにっくきハンターに一撃をお見舞いすることもできたかもしれないのに。
 ずべっ、と名前が勢いよく転んだのはその時だった。

 終わった。名前は心の中で泣いた。転ぶのも、そして身を起こそうとするのも一瞬だったが、名前にはひどく長い時間に感じられた。ハンターの第一発見者――この場合、ハンターに発見された生贄第一号という意味だが――になってしまっただけでなく、無様に転んでわざわざ自分から捕まり易い状況を作り出してしまった。板を倒し損ねた時だって、こうも情けない気持ちにはならない筈だ。穴があったら入りたい。
 これから私は、このハンターに殴り倒されてしまうんだ――しかし、いつまで経っても名前が思っていたような強い痛みはやってこなかった。確かに白黒無常が背後に立っている気配はするのだが。さては、名前が逃げると見て、姿を入れ替えてより戦闘向きになろうとしているのだろうか。名前はこれまで何度も白黒無常に辛酸を嘗めさせられていたが、名前をチェアに括り付けたのは大概黒い姿の時だった。きっと今回もそうするつもりに違いない。
 不意に雨が止んだ。
 いや、止んだわけでは決してなかった。名前に降りかかる雨だけが途絶えたのだ。聞こえるのは、ぱたぱたという軽い雨音。名前はきつく閉じていた瞼を恐る恐る開いた。視界の端に黒い爪先が映り込み、思わず息を呑んだが、それから耳に届いた小さな笑い声に顔を上げた。


 名前の手を引いて立たせた後も、白黒無常は暫くの間くつくつと笑っていた。「サバイバーが転んだところなんて、初めて見ましたよ」
「なっ」名前は相手がハンターであることも忘れ、かっと赤くなった。「し――失礼よ、人の失敗を笑うなんて!」
「君達だって、僕らが空振りしたら笑ってるじゃないですか」
「そ、そういう人だって居るけど……」
 ごにょごにょと名前が口にすると、白黒無常は再び小さく笑ったようだった。

 雨の日は気が滅入るんですよと、白黒無常は言った。サバイバーを追い掛ける気にもならないし、ゲームに興じようという気にすらならないのだと。
 どうやら優鬼となってくれるらしかったが、名前からすればエリアの端にでも居て蹲っていて欲しかった。しかし白黒無常は「君を雨に打たせたままなのは気分が悪いから」等と謎の紳士っぷりを発揮し、彼が携帯しているその傘に名前も入れてくれたのだ。おかげで名前は他のサバイバーが解読を終わらせるまでの間、こうして彼と二人きりで雨宿りをする羽目になった(雨の当たらない教会へ送っても良いがあっちで他サバイバーが解読しているし、どうせゲートに近いのだからと白黒無常は肩を竦めた)。
「ねえ、あの黒い人は出てこない……わよね?」
「范無咎のこと?」
「ファン……?」
「范無咎」
「貴方達、名前があったの?」名前は思わず口走った。
 思った通り、白黒無常は少しばかり不愉快そうに目を細めたものの(名前は反射的に身を震わせた)、名前を吊る気にはならなかったようだった。「まあね」と口にする。
「君ら、僕達のことを何だと思っているんです」
 それから思い出したように「僕は謝必安」と名乗った。「多分、出てこないんじゃないのかな。あいつも雨は嫌いですし。ま、断言はできませんけどね」

 ――名前はそれまで、人ならざる姿をしている彼らに、それぞれ名前があるだなんて、少しも考えたことがなかった。大人数でのゲームの時など、ある程度の意思疎通はしていることは見て取れたが、ハンターとしてでなく個人としての名があったり、こうして傘に入れてくれたり、まして上着を貸し与えてくれたりするだなんて、ただの一度も考えたことがなかったのだ。
 こんなの、普通の“人間”みたいじゃないか――。
 浮かんできた考えに蓋をしつつ、「それなら良かったわ」と名前は言った。
「随分と安心しているようですね。范は苦手ですか?」
「そりゃ、あれだけ殴られたら嫌にもなるでしょう」
「ふふ」白黒無常は――謝必安は笑みを漏らした。
「ところで、僕らは一人ではなく、二人が一つの身体を共有しているんですけど」
「あ、そうなの、二重人格だったわけじゃないのね」
「はい。で、まあぶっちゃけ、僕達の本体はこの体でなく、そっちの傘の方なんですよね」
「えっ」
「言ってる意味解ります? 君が今、大事に持ってくれてるその黒い傘、范無咎なんですよ」
「……え?」
 サアッ、と、血の気が引いたような気がした。
 白黒無常が常に持っている黒い傘――謝必安が上着を貸してくれようとした時、脱ぎにくいだろうからと名前が預かり、雨宿りさせてもらっている身なのだからと言いくるめ、それからは名前が差していた。白黒無常は背が高かったが、名前が目一杯手を伸ばし、謝必安が少し身を屈めてくれればさほど問題は無かった。
 ――こっちが本体? 白い方は隣に居るし、じゃあ私が今手にしてるのは、あの、いつもしばき倒してくる、黒い方の白黒無常?

 それから名前は傘を白黒無常に勢い良く押し付け、上着を突き返し、「もう帰る!」と宣言したが、「逃げないで下さいよ、折角優鬼してあげてるんですから」とか、「何なら君だけ吊りましょうか」と笑う男を前に、今度こそ本当に血の気が引いた。やっぱりこいつ、どう転んでもハンターだ。名前は盛大に顔を引き攣らせたが、ちょうどその時、五台の暗号機が解読し終えたことを示すサイレンが鳴り響いた。それを合図に名前は白黒無常の元から逃げ出したものの、名前が逃げたことでハンターとしての熱が入ってしまったらしく、名前は暫くの間追い掛け回され、結局、姿を変えた白黒無常にまたも殴り倒されてしまった。
 しかしながら、謝必安の言っていた“雨の日は気が滅入る”というのは確かだったようで、名前を吊った白黒無常――范無咎はゲート前で名前を風船から切り落とした。無様に転がった名前を見て、范無咎はふんと鼻で笑う。ゲートは既に開いており、その内側でサバイバーが息を潜めていることは名前にも解ったが、白黒無常はそんな仲間達にも襲い掛かる気にならなかったようだった。「風邪引くなよ」と低く呟き、それからやがて、一陣の風と共に姿を消した。
「――もう、あいつらほんと嫌い!」
 ゲートの内側で治療して貰いながら、名前はそう泣き言を漏らしたのだった。

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