雷夜

 名前は狡賢い鬼だった。生前から、道行く人の財布をくすね、借金を踏み倒し、金目のものを盗み――と、そんな生き方をしていたので、鬼となった名前が性悪なのも致し方のないことだった。お天道様に顔向けできない生き方をしていたら本当に日の下を歩けなくなってしまった、というのは、何とも皮肉な話だ。ちなみに、人間の名前はスリの現行犯で袋叩きにされ、生きているのか死んでいるのかも解らない状態の中、無惨様に出会って鬼にしてもらった。もっとも名前はそんな生前のことなどとんと覚えていないのだが、性の根に染み付いた習性というのは、なかなかどうして変えられないものらしい。
 鬼としての才覚に恵まれなかった名前は、持ち前の口の上手さを生かすことにした。善良な下男を泣き落としては肉を喰い、己より強い鬼には死に物狂いで媚を売った。時には泥水で口を漱ぎ、またある時には地べたに額を擦りつけた。そうして意地汚く生き永らえた後、名前は一つの地位を手に入れた。「名前、名前……」
「名前はここに居ますよ」
「名前……」
「大丈夫です半天狗様、もう鬼狩りはみんな喰べちゃいましたから」
「ヒィーッ」
 名前の言った事にすら怯えたように、半天狗は小さな悲鳴を上げた。
 しまった、言葉を間違えた。しかし時既に遅く、半天狗は名前にしがみついたまま、しくしくと憐れそうに泣きじゃくっていた。「名前、名前……」と、只管名前の名を呼びつつ、名前の腕をぎゅうと握っている。名前は「大丈夫ですよお」と努めて優しげな声を出し、繰り返し彼の背中を撫でた。


 上弦の肆、半天狗。十二鬼月の一人であり、数多の鬼の中でも屈指の力を持つ鬼だ。半天狗はこれまで何百人もの人間を喰べ、そしてその異能で全てを薙ぎ払った。しかしながら、彼の本性はそうしたところとは全く異なるところに位置していた。
 まるで赤子のようだ。
 名前は優しく半天狗の背を撫で擦りながら、彼が泣き止むのを待っていた。名前が言った通り、名前達に刀を向けていた鬼殺の剣士達は皆もう死んでいる。名前が直接喉笛を喰い千切ったのだから間違いない。どうやら経験の浅い者達ばかりだったようで、下弦の鬼にすら遠く及ばない名前でさえも、簡単に倒すことができた。震えながら、名前に縋り付くようにしている半天狗に、名前はどう声を掛けようかとそればかりを考えていた。
 子守唄でも歌ってやろうか。それとも、もっとぎゅうと抱き締めてやろうか。
 半天狗は上弦の鬼でありながら、その一方でとてつもなく臆病だった。野を走る風の音に飛び上がったかと思えば、朝が近付くたびに夜が離れることを嘆いた。鬼狩りに出会っても、襲い掛かるどころか、常に逃げることを考えていた。――もちろん、だからこそ彼の強みは発揮される。半天狗の血鬼術は、彼の心の動きに強く呼応し実体化する。追い込まれれば追い込まれるだけ、強い分身体が作られるのだ。半天狗が上弦の鬼となれたのも、偏にそうした怖がりの性が起因していた。

 そんな、臆病な半天狗を利用しようと名前が考えついたのは、今から数十年前の事だった。
 何に対しても怯える半天狗だが、決して実力が無いわけではない。上弦の鬼なのだから当然だ。名前は最初、私は貴方の味方です、などと嘯いて彼に近付いた。敵意が無いこと、本心からの言葉であること、文字通り身を粉にしても守る決意があること――それらを半天狗に信じ込ませるために数年掛かったが、見返りは大きかった。
 名前を自分の味方なのだと信じ切った半天狗は、それ以後常に名前を連れ回すようになった。彼は怯える度、いつも名前を頼った。当然ある時は文字通りの肉壁となって彼を守ったり、本当に死にそうになったことも一度や二度ではないが、その度に半天狗の血鬼術が名前を守ってくれた。勿論、喜怒哀楽の鬼達が守ったのは半天狗であって、名前ではないのだが。しかしそのおかげで名前は生命の危機に脅かされる心配は無くなったし、ひょっとすると半天狗が殺した人間のおこぼれに与ることもできた。
 少し言葉に色を乗せ、さも慕っていますという素振りだけ見せておくだけで、半天狗は名前を近くに置いてくれた。これほど楽なことはないだろう。
 半天狗の後を付いて歩く名前を、他の鬼達は憎らしげに見ていたが、上弦の鬼である半天狗に指図できるわけがなかった。連中に弱いくせにと揶揄されるのは腹が立ったが、奴らは私を羨ましがっているのだと思えば、そんな気持ちはすぐに霧散した。もちろん、名前の行いは褒められるものではないのだろうし、仮に無惨様が名前を見れば、それはそれは恐ろしいことになるかもしれなかった。しかし名前が半天狗と共に居ることで、同時に鬼狩りが死ぬ割合も上がっている――半天狗は一人の時は鬼狩りから逃げようとするのだが、名前が鼓舞すると自ら殺しに向かうこともあるのだ。仕方なくといった風情ではあるが――のだから、彼が何を言う筈もなかったし、名前の首は依然繋がっていた。

 夜の間は獲物を探して歩き回り、日の昇っている間は物陰に隠れてずっと半天狗を抱いているのが二人の日常だった。名前よりもずっと昔に鬼となり、その上学問を収めていたらしい半天狗は名前よりずっと物知りで、日中、彼がぼそぼそと他愛の無いことを話して聞かせる時間を、名前はそこそこ楽しみにしていた。
「お前を失うことがいっとう恐ろしい」
 そう言って、半天狗がはらはらと涙を流したのは、つい先日の話だった。


 ずっとすすり泣いていた半天狗も、漸く落ち着いてきたようだった。「ありがとう、名前」と小さく呟く半天狗。本来であれば、彼は名前などの庇護は必要ない。しかし、事実はどうであれ、こうして頼りにされると、名前としても悪い気はしなかった。
「大丈夫ですよ、私が守ってあげますからね」
「名前、名前、お前だけは、ずっと儂を守っておくれ」
「あはは、半天狗様はお強いじゃないですか。半天狗様が私を守って下さいよう」
「儂は強くなんてない、お前が守ってくれなければ……」
「ふふ、嘘嘘」名前は笑った。「半天狗様は私なんかよりずっとお強いんですから」
 そんな冗談仰らないでくださいな。と、名前が言った時だった。「ヒ――」

「ヒッ、ヒィィー!」
「は、半天狗様!?」
 名前に大人しく抱かれていた半天狗が、急に暴れ出した。まるで、名前から逃げ出そうとするかのように。一体どうしたというのだろう、それにしてもこうなった彼を宥めすかすのは大変だ、と、名前が考えた時だった。名前の世界は反転した。
 ドッ、と吹き飛ばされた名前は、そのまま背後にあった木に激突した。そして間髪入れず、喉に激痛が走る。喉が潰れ、げ、と濁った音がした。いったい、何が起こったのか。名前はほんの少しだけ視線を下にやった。名前の喉元から、長い木の棒のようなものが生えていた。今までに何度も目にした、あの錫杖。「――腹立たしい」

 名前が半天狗の錫杖を抜こうともがいていた時、分裂した積怒は本体を優しく拾い上げていた。名前の目にも、小さくなった半天狗がぶるぶると震え、積怒の掌にしがみ付いているのが見えた。
 名前の何かが、彼の琴線に触れたのだ。
 本能的にそれは理解したが、何故こうなってしまったのかは解らなかった。半天狗の真意を探ろうと、名前は一心に半天狗を見ていたが、積怒に睨まれ一瞬身が竦んでしまった。半天狗から――怒り狂った上弦の鬼から、名前が逃げられるわけもない。
「貴様のような何の能も無い輩を、儂が好き好んで傍に置いておったと思うのか」積怒が言った。「貴様はただ、儂と共にあれば良かったのだ」
「貴様のような愚図と二十余年も過ごしたのが馬鹿らしいわ。腹立たしい」
「ど、……て……」
「余程の阿呆だな貴様は」
 貴様は儂を否定しただろうが、と、積怒は唸るように言った。


 ――そんな、そんな馬鹿な。
 あんなの、ただの軽口じゃないか。確かに、半天狗が多少の名前の我が侭を許してくれるから、調子に乗ったことだってあるけれど、そんな――たった一度、否定したからだなんて――。
 名前は渾身の力で錫杖を掴み、喉から抜き取ろうとしたが、喉から異物感が無くなったと思った次の瞬間、下腹から首元までを一気に貫かれた。ぎゃあと叫んだ名前に、続け様に雷撃が押し寄せる――鬼は、日の光を浴びなければ死ぬことができない。それから夜通し雷がやむことは無く、後に残ったのは無残に黒焦げた古木だけだった。

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