半ば押し掛けの弟子入りだったにも関わらず、名前は獪岳が思っていた以上に丁寧に指導してくれた。
 ――初めて会った日もそうだったが、柱というものはやはりかなりの多忙らしい。名前は大概屋敷を留守にしていたし、明け方に帰ってきたかと思えばすぐさま布団に潜り、日が沈む頃には屋敷から姿を消していた。数日帰ってこないことなどざらで、継子となってからも獪岳はまる一週間放置された。おかげで、彼女が継子にしてくれたのは何かの冗談だったのではないかと訝しく思う始末だ。
 しかし、確かにほんの短い時間ではあるものの、屋敷に居る間は、彼女は獪岳達に付きっ切りで指導をしてくれた。
 獪岳が初めて名前の前で刀を振った時――日が傾きかけた頃起きてきた名前は、獪岳の実力が知りたいからと、一通りの型を使わせたのだ――「なぜ他の型はきちんとできているのに、壱ノ型だけできないの?」と名前は不思議そうに言った。壱ノ型は、六つある雷の呼吸の型の中でも基本的な型だ。確かに、壱ノ型だけ使えないのに他の型だけ使えるというのは、彼女の目にも奇異に映るのだろう。獪岳が答えられないで居ると、名前はそれきり興味を失ったのか、それ以上追及することはなかった。
「君はとても熱心ね」
 ほんの少しだけずれていたという体の向きを直しながら、名前が言った。獪岳の背に手を添え、それから背筋を伸ばすように促す。「先生の教えをきちんと守っているのね。とても綺麗な剣筋だわ」
 大体の実力は解ったからと、名前はそれから獪岳に基礎体力を上げるよういくつかの指示を出した。池を泳げだの、瓢箪を割れだのと頓珍漢なことばかりだったが、その修行の恐ろしさを獪岳が知るのは少し後の話だ。

 女だから、やはり面倒見が良いのだろうな。獪岳は何となくそんな風に思っていた。しかし、どうやら実際は少し違ったらしい。
 雷柱の屋敷には、獪岳の他に二人の継子と、手伝いとして住み込みで働いている二人の子供が居た。それを獪岳に教えたのは、獪岳と歳の近い方の継子だった。「名前先生、前はあんなじゃなかったもの」
「そうなんすか」
「そうよう。最近はよく帰ってきてくれるけど、前は最低でも一週間は家を空けていたもの。半年居なかったことだってあるのよ」
 それは些か度が過ぎるのではと思わないでもなかったが、獪岳は頷くだけに留めた。
「けど、獪岳くんが来てからは、しょっちゅう帰ってきてくれるでしょ? それに修行だって見てくださるし。名前先生、前は時々私達の様子を見るくらいで、ああやって直接教えてくれることなんて殆どなかったもの。きっと、獪岳くんがすごく才能あるんだと思うの」
「へえ……」
 そりゃ、アンタは俺よか技のキレだって鈍いもんな。獪岳が失礼なことを考えているなどと露にも思わないのだろう、先輩の継子は「よっぽど期待されてるのねえ」と能天気に笑っていた。


 食事の用意が出来たから柱を呼んできてくれと言われ、獪岳は素直に頷きつつも、内心では不満を零していた。しかしながら、いくら尊敬に値しないような先輩であっても、歳も階級もあちらの方が上だし、此処では獪岳が一番の新入りなのだから仕方がない。渋々と名前の部屋の前までやってきた獪岳だったが、そこではたと気付いた。何と呼び掛ければよいのだろう。
 これまで、獪岳は名前のことを心内では「雷柱」とか、単に「あいつ」とだけ呼んでいた。女の柱なんてという気持ちもあったし、獪岳は彼女の実力をいまいち掴み切れていないからだ。名前が留守にしがちなことも重なって、面と向かって名前の名を呼んだことがなかった。
 他の継子達は、彼女のことを名前先生と呼んでいた。となると同じく継子である獪岳も彼女を先生と呼ぶべきなのだろうが、桑島と違い、自分と歳も近く、おまけに女の名前を先生と呼ぶ気にはなれなかった。
 逡巡の末、獪岳は名前の部屋の前で「すみません」と声を掛けた。
「夕餉が出来たそうです」
 返事は無かった。もしや、部屋に居ないのでは。このまま襖を開けて良いものかどうか――そんな事を思っていた矢先、突然名前が目の前に現れ獪岳は激しく動揺した。「今日は魚なのね」
「え、あ、ああ、そうです。向かいの家の人に貰ったんだそうで」
「そう。ではまたお礼を言っておきましょう」
 静かにそう口にする名前に、獪岳は少しだけ悔しい思いをした。
 部屋の外からとはいえ、獪岳には名前が部屋に居るかどうかすら解らなかった。物音だって少しもしなかったし、それこそ、彼女が襖を開けて顔を見せるまで、獪岳は名前の気配に気が付かなかったのだ。柱ともなると気配を消す癖がついているのかもしれないが、自身の屋敷でまで息を潜めないで欲しい。「そういえば、私のことはどう呼んでも構わないわよ」
「え」
「部屋の前で随分悩んでいたでしょう。違った?」
「きっ――」獪岳は思わず声を出した。「――気付いてたんなら、もっと早く出てきて下さったら良いでしょうに」
「そういえばそうね」名前はどこ吹く風だ。
「他の子と同じように先生でも構わないし、名字さんとか、名前さんとかでも構わないわ。君の好きにして」
「……そうですか」
 歩き出してから、名前は「ああそれと」、と思い出したように言った。「獪岳、君は壱ノ型を使えないことを恥じているようだけど、気にしなくていいと思うわよ。雷の呼吸をきちんと使えていようと、我流の剣だろうと、鬼の首が斬れればそれでいいんだもの。君は実際に鬼を斬れているし、何も問題はないでしょう」
 もちろん先人達の研鑽の集大成なのだから使えるにこしたことはないけれど、と名前は付け足した。確かに、彼女の言っていることは一理あるような気がした。獪岳はこれまでの任務の中で、出会った鬼の全てを斬ってきている。例え、桑島がいつまで経っても壱ノ型だけ会得しない獪岳に苦い顔をしても、さほど問題は無いのではないか。
 先生は柱なのに存外適当なのですねと獪岳が口にすると、前を歩く名前が少しだけ笑ったように思えた。

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