その鬼は、今までずっと微笑を浮かべていた。それが今は、ぽけっと間の抜けた表情をして名前を見ている。まるで、見たことのない生き物を見ているような、そんな表情で。

 童磨はこれまで、人間は種として劣っているからこそ、極楽などという有りもしないものを求めるのだと思っていた。本当は全て――極楽などないのではと――解っているのではないかと思ったこともあったが、それは間違いだった。彼らは心の底から、救われたいと願い、そして涙を流していた。馬鹿げた宗教にのめり込む彼らを見て、童磨は哀れに思い、そして思ったのだ。救ってやりたいと。
 痛みに耐え、恐怖に震えながらも己を殺そうと刀を向ける娘を見て、童磨はああと思った。彼らは、可哀想なのだ。
 剣士を殺すたび、勝てる見込みも無いのに向かってくる彼らを、童磨は哀れに思っていた。鬼舞辻を殺そうとしている為、なるべく多く殺そうという意識こそあったものの、彼らへの思いは変わらなかった。可哀想に。痛いだろう。君達の思いは俺が受け止めてあげる。そして永久に持っていってあげよう。

 童磨が傍らに屈み込むと、女はそのまま日輪刀を振りかざした。しかしその刃は童磨の首に届くことはない。童磨は、彼女の手を優しく受け止めた。「まだ君に名を名乗っていなかった。俺は童磨」
 俺は君を気に入ったんだと口にすると、彼女はひどく不可解そうに眉を寄せた。


 ぺらぺらと話し始めた鬼――童磨と名乗った鬼を見返しながら、名前はどうすればこの場から逃げ出せられるかを考えていた。立春は過ぎたものの、日が昇るまでにはまだ随分と時間があった。鬼は名前の手を握ったままだし、よしんば拘束を逃れたとしても、この足で逃げ切ることは不可能だ。
「君のようなか弱い存在を見ていると、俺が為すべきことが見えてくるような気がするんだよ」
 そう言って、童磨はにっこりと笑う。鬼が何を考えているのかは解らなかったが、馬鹿にされていることだけは解った。

 私を気に入ったっていうんなら、私に殺されてよ。名前が皮肉混じりにそう口にすれば、童磨はきょとんとしていたものの、やがて「ああ!」と合点したように笑顔を浮かべた。面食らったのは名前の方だ。名前の利き手を放した童磨は、そのまま己の首元に手をやり、襟元を寛がせたからだ。「見えるかい? 鬼の首だよ」
「俺のような強い力を持った鬼でも、此処をその刀で切られてしまえば生きられない。陽の光で殺すという手もあるが、日の出はまだ先だし、非力な君が、それまで俺を抑えておくのは現実的じゃないだろう? その点、頚なら切り落としてしまえばおしまいだ」

 にこにこと笑っている鬼に、名前は尚も困惑した。
「な、何を言っているのか解らないわ。貴方、私を喰べるって、さんざん……」
「……ああ! そりゃあ喰べたいさ」童磨はにっこりと笑った。「けれど、それじゃあ君は救われない。そうだろう? 俺は君を気に入った、だから救ってあげたいんだよ。君は俺に、俺が為すべきことを教えてくれた。それならその恩に報いなければ。君が俺を殺すことで救われるというのなら、俺はそうしてやりたいんだよ」
 さあ立って、と、童磨に手を引かれ、半ば無理矢理立たせられる。訳が解らなかったが、ここでこの鬼を殺すことができれば、それに越したことはない。まさか手負いの名前を相手に謀略を働いているわけではないだろう。そんなことをしなくても、名前はじきに死ぬからだ。呼吸を整えながら、何とか目の前に立っている童磨を見据える。
「ほら此処、此処だよ、よく狙うんだ」
 美しい男を前に、名前は刀を振りかぶった。


「――あー……」童磨が気まずそうに言った。その声は残念がっているようでも、同情しているようでもあった。「まあ、こういう事もあるさ」
 名前は、確かに童磨に斬り掛かった。足の怪我もあり、型は使えなかったが、それでも全力で日輪刀を振り下ろした。しかし名前の日輪刀は、童磨の首に触れた瞬間、ぱきんと軽い音を立てて根元から折れてしまった。まるで飴細工が壊れる時のように。

 童磨は何事かを喋っているようだったが、名前にはもはや言葉として聞こえなかった。曝け出された童磨の首は、少しも傷がついていなかった。名前の渾身の一太刀は、彼にとっては何の効果もないものだったのだ。今まで、確かに首だけが異様に硬い鬼には会ったことがある。しかしそんな鬼達も、名前達の攻撃を何度受けると必ず首が落ちた。しかし、これは違う。例え日輪刀が折れなかったとしても、名前は童磨の首に一つの傷もつけられはしないだろう。ひょっとすると、首以外の場所でも。
 遊ばれていたのだ、最初から。
 膝を着いた名前に、童磨が慌てた様子で駆け寄った。
「どうして泣くんだ? ああ、手が切れてしまったのか。可哀想に、痛かったろう。ほら、此処のところを――」童磨は自身の首元を指し示したようだった。「――見てごらん、少し赤くなっている。首を斬るには至らなかったが、あと百か千回繰り返せば、君でも俺の首を落とせるかもしれないよ。さ、明日からも頑張ろう?」
 そう言って、名前の頭を撫でる童磨の瞳には、小さく文字が刻まれていた。上弦の弐。それがどういう意味合いを持つのか、知らない名前ではなかった。咽び泣く名前を、童磨は朝日が昇る寸前まで抱き締めていた。名前の背を撫でるその手は、赤子を抱く母のように暖かだった。

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