鬼を取り逃がしてしまった、としょぼくれる名前を見て、後藤は同情するような目を向けていた。

 まあ気を落とすなよ、命あっての物種だし、怪我も無いんだから上々だよ。そう言って、後藤は名前の肩をぽんと叩いた。彼は鬼殺隊の隠の一人で、二年前、名前に押し切られて育手を紹介してくれたその本人だった。自分が紹介したからと責任を感じているのか、彼は名前を見掛けると声を掛けてくれる。
「鬼を一人殺せば、それだけで何人も助けることができるのに」
「……そりゃ、そうだけどよ」
 お前そんな弱っちい癖に、志だけ高くしてどうすんだよ、と呆れたような口振りで後藤は言ったが、「いいか、あんまり気負いすぎんなよ」と釘を刺した。
「勝てないと思ったら即逃げろ。生きてりゃ何とかなる。俺だって、鬼は殺せないけど鬼殺隊として何とかやってる。鬼殺ができないならできないなりに、役に立てることだってあるんだよ」
「そうですね……えっ、待って後藤さん、私が鬼殺できないって思ってるんですか?」
「………………」
「後藤さん!」
 後藤は結局名前の問いに答えることはせず、「深く考えんな、出来ることだけやれ」と真っ当なアドバイスをして去っていった。


 それからも、名前は鬼殺の剣士として明け暮れた。ある時は東へ行って鬼を斬り、またある時は西へ行って鬼を斬った。何人かの隊士達と一緒の任務になった時は、数十人も人を喰べたという手強い鬼(人を喰べれば喰べるだけ、彼らは強くなるのだそうだ)を相手に死ぬかと思ったが、それでも何とか生き残った。名前は弱いが、弱いなりに成長しているつもりだった。後藤が言ったように、出来ることだけをやれば良いのだ。そしてほんの少しずつでも、出来ることを増やしていけば。
「君、本当に運が良いねえ」
 片手で名前の攻撃を受け止めて見せたその鬼は、そう言って眉をハの字に下げた。名前は間髪入れずに次の攻撃をするつもりだったのに、男ががっちりと日輪刀を掴んでいるおかげで叶わなかった。初めての鬼殺の時に出会った、美しい鬼。
 名前は鬼から何とか日輪刀を取り返そうと精一杯引っ張ったが、少しも動く気配が無い。まるで壁に深く突き刺してしまったかのようだ。
 ――並みの鬼であれば、日輪刀を掴むことは出来ない。陽の光をいっぱいに浴びた鉄で作られたその刀は、鬼にとっての唯一の弱点だったからだ。当然、鋼のような体皮であっても、日輪刀に触れれば無事では済まない。名前の面前に立つ鬼が楽々と刀を掴んでいるのは、偏に彼が鬼舞辻から多量の血を分けられた、鬼の中でもいっとう強い鬼だからだ。しかしながら、名前はその事に気が付かない。経験が浅いからだ。

「ご覧、東の空が白みかけている。日陰になりそうな場所も無いし、君を此処で殺せば、俺は君を喰べている間に日に焼かれて死んでしまうだろう。悲しいけれど、俺はまた君をおあずけにしなきゃならない」
 まったく残念だよと、鬼は肩を竦めてみせた。男が鬼だと知らなければ、名前は彼に慰めの言葉を向けていたかもしれない。
「私を喰べる前に、私に殺されるとは考えないの」
「えーっ? 君、まさか俺を殺すつもりなのかい? 俺に手も足も出ないのに?」
 鬼に侮られたくなくて捻り出した虚勢だったが、意外にも彼は本心から驚いているようだった。「君、俺との力の差がわかっていないのかい? 俺には君を殺すことなんて簡単なんだぜ。君の臓腑を取り出すのなんて一瞬でできるし、君は俺の血鬼術だって見たことがない。今だって、俺は君の攻撃を止めているじゃないか。君は俺から刀を取り返すこともできていないし、この刀が無ければ俺に傷一つ付けることもできない。それなのに、俺を殺すつもりなのかい? 本当に?」
「何故そんなに頑張るんだ? 俺が見逃すって言ってるんだから、甘んじて受け入れればいいじゃないか」
「貴方達が生きてると、不幸になる人が大勢居るからよ」
 名前がそう言っていっそう力を込めて腕を引けば、日輪刀はついに鬼の手から解き放たれた――わけではなく、単純に鬼が手を離しただけだった。勢い余ってたたらを踏むも、何とかそのまま構え直す。

 鬼は果たして未だそこに居たが、その顔には明らかな困惑が滲んでいた。「むう、よく解らないなあ。そんなに震えているんだ、死ぬのが怖くないわけじゃないんだろう?」
 名前が思わず身じろぐと、鬼はにっこりと微笑んで「やっぱり君はとびきり運が悪いみたいだ」と口にした。そのひどく優しい声音に、一瞬、相対しているのは鬼などではなく、ただの人間なんじゃないかと勘違いしてしまいそうになる。
 名前の嗅覚が人並み外れて優れていれば、この鬼が今までどれだけの人間を殺したかが解っただろう。名前の触覚が鍛え上げられていれば、鬼の言うことが嘘ではなく、本当に瞬く間に名前を殺せてしまうのだと身に沁みて解っただろう。そして名前の聴覚が常人以上のものだったならば、鬼の言葉が本心からのものだと解っただろう。この時童磨は確かに名前に同情していたし、だからこそいっそう強く思ったのだ。俺が喰ってやらなければと。
 俺は食べ物は残さず喰う主義だし、今度会った時はきちんと喰べてあげるからねと、そう言い残して姿を消した。

 本来であれば、名前は鬼に会って――自分よりも遥かに強い力を持つ鬼に会って生きていることを、嬉しがって然るべきなのだ。童磨は上弦の鬼の中でも殊更強い鬼だったし、この百余年その座を明け渡したことは一度として無かった。しかし名前には、素直に喜ぶことは出来なかった。それは名前が童磨の実力のほんの一端しか知らないからという理由もあるが、それ以上に、名前の鬼に対する意識が関係していた。
 名前は、鬼は全て殺してやらねばならないと思っていた。

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