一人の鬼を殺す事ができれば、何十人もの人を不幸から救えるのよ。そう言って微笑んだのは、名前を助けてくれた女剣士だった。家族を殺され、抵抗の一つもできずにただ喰われるのを待っていた名前を、彼女はその言葉一つで奮い立たせてくれた。私も、彼女のような剣士になろう。一人でも多くの人に、こんな思いをさせないように。そうして、名前は鬼殺隊へ入隊したのだ。「あれえ、また君かあ」
 また会ったねえと柔らかく微笑むその鬼に、名前は身を強張らせた。


 女剣士に助けられた後、やってきた隠の人達に全力で取りすがって育手を紹介してもらい、修行の末に何とか鬼殺隊へ入隊した名前だったが、そこで待っていたのはどうしようもない現実だった。名前は驚くほど弱かったのだ。
 育手に教えてもらった呼吸法は結局身に付かなかったし、呼吸の型だってやっと一つだけそれらしい振る舞いができるかどうかというところ。後から弟子入りした弟分にはすぐに抜かされ、それでも年上かと馬鹿にされる始末。挙句、何とか最終選抜からは生き残ったものの、初めての鬼殺の時に大怪我をして数ヶ月療養を余儀なくされ、半年経った今でも退治した鬼は片手で足りる程度。もちろん刃物なんて包丁くらいしか握ったことのなかった自分が、すぐに鬼を殺せるようになるとは思っていなかったが、それでもあんまりだった。今では、鬼を一人でも多く殺すことができればそれで充分だと、そう思ってすらいる。
 異形の鬼は、元は人間なのだという。
 鬼の血――傷口に鬼舞辻無惨の血を浴びることで、人は人ではなくなるのだそうだ。御伽草子のように、都合の悪いことから目を逸らさせるため鬼と呼称したわけではない。彼らはただ、人間でなくなってしまっただけの人間だった。しかし彼らを人に戻す術はなく、また彼らも人の肉を食わねば生きられないため、名前達鬼殺の剣士は彼らを殺し続ける。
 確かに名前は弱かった。鬼に会うと未だに体が竦んでしまうし、体力も無いし、力も弱いし、素早くないし、おまけにすぐ怪我をする。けれど名前の腕を鈍らせているのは、鬼は元々は人間なのだという、その変えようのない事実だった。自分が殺す相手は、誰かの大事な人だったのだ。その思いが捨て切れなかった。

「もう腕は良くなったのかな?」
 鬼の言葉に、名前は思わずびくりと身震いする。半年前、名前の腕を殆ど引きちぎりかけたのは、この鬼だった。

 半年前。名前は初めての任務にひどく意気込んでいた。藤襲山では散々だったものの、これから人の役に立つことをするのだと思うと、不思議と勇気が出た。助けてくれた女剣士の言葉を思い出すと、自然と力が湧いた。鎹鴉からの伝令に従い、名前は少し離れた丘を目指していた。
 美しい男だった。白橡色の髪は最上部だけ赤く、まるで頭から血を被ったようだった。一目見て上質だと解る、紅色の着物を着ていた。物腰も柔らかく、その整った顔には柔和な笑みが浮かべられていた。変わった色合いの瞳も、男の美しさをいっそう引き立てているようだった。
 そんな男に「こんばんは、良い夜だね」などと微笑みかけられては、誰だって悪い気はしないし、剣士の名前でさえ、まさか男が鬼だとは思わなかっただろう。彼が息絶えた女の頭蓋を抱いていなければ。
 鬼というものは化け物のような姿をしているとばかり思っていた名前は、その鬼に斬りかかるまでに少し時間が掛かった。相変わらず男は微笑んでいるし、襲ってくる気配もない。しかし男の口から血に濡れた牙が覗いた時、漸く目の前に居る男が鬼なのだと理解することができた。名前は自分が感じている言い知れない気持ちが、本能から来る恐怖なのだと気が付かなかったし、だからこそ、その鬼――上弦の弐、童磨に向かって、日輪刀を振りかざすことができたのだ。

 斬りかかったはいいものの、結果はあっけなかった。名前の日輪刀は鬼に届くまでの一瞬の間に叩き落とされ、それどころかそのまま腕を掴まれ地面に放り投げられた。受身を取ろうとするよりも先に、猛烈な激痛に何も考えられなくなった。振り回された衝撃で肩が外れた。握られた腕はへし折れ、折れた骨の先が肉から突き出した。腕が千切れなかったのが不思議なほどだった。そんな状態で地べたに転がされたものだから、名前の苦痛は並大抵のものではない。
 ぎゃあと、悲鳴を上げた名前。もう首を狙うだとか、鬼が回復する前に止めをさすだとか、そういう次元ではなかった。
 名前が痛みに泣き喚いているのを、鬼は黙って見下ろしていた。しかしやがて屈み込むと「稀血の剣士だなんて珍しいなあ」と感心したような口振りで言った。燃え盛るように熱い腕に、一瞬だけ冷たいものが触れる。「やっぱりそうだ。君を喰えば、俺はいっそう力を得るだろう」
「うーん、殺すだけというのは勿体無いな。しかし、俺は今満腹だし……」
 腕からの激痛で思考力が鈍り、鬼が何を言っているのかは解らなかったが、自分が生死の瀬戸際に居ることだけは理解できた。この鬼は今、名前を喰べるかどうかを吟味している。「持って帰っても良いが、信者達への説明も手間だしなあ。かと言って今殺してしまうと、肉がすっかり傷んでしまう」

 鬼は暫く一人で考えていたようだったが、やがて晴れ晴れとした声を出した。
「よし、こうしよう。俺は今日、君を見逃そう」
 君だってその若さで死ぬのは本意じゃないだろう。お互いの為になることだ。俺はなんて優しい男なんだろう。
 鬼は一人で喋り、そして一人で納得していた。そして、「それじゃあ君、次に俺に会うまでに、上手く生き残るんだよ」などと嘯いて、名前の元から去っていったのだ。鴉が鬼殺隊の人間を呼んできてくれたおかげで何とか生きているし、腕もやがて殆ど元のように――利き腕ではなかったのが幸いだった――動くようになったが、暫く刀を握れない状態が続いた。


 名前が刀を構えると、鬼は元から下がり眉だったのを更にハの字にさせた。「おいおい、君、まさかまた俺に斬りかかるつもりかい?」
「前に会った時、君は俺に触れられもしなかったじゃないか」
 鬼は言葉を続けた。「構えだって前と同じだ。その呼吸が俺に通用しなかったこと、まさか忘れたわけじゃないだろう? それなのに、そんな棒っきれでどうするつもりなんだ?」
「棒っきれなんかじゃないわ。刀匠さんが、丹精込めて鍛えてくれたんだから」
「おや、そうなの」
 君は俺とお喋りしてくれるんだねえ、と、まるでずれた返事をする鬼の男。
「君は運がいいよ、俺はまたしても満腹だ。ちょうど君と同じくらいの歳の子達を喰べたばかりなんだ。今君を喰べても、俺はきっと吐いてしまう。いや、それとも運が悪いのかな?」
 男の言葉が終わる前に名前は斬りかかったが、名前の日輪刀は文字通り空を切った。鬼の姿を探せば、名前からずっと離れた所に立っていた。いったいいつ、移動したのか。名前の目では追い切れない速さであそこまで跳べるということは、名前が気付かぬ内に名前の背後を取ることも可能だということ。その事実に身の毛がよだったが、どうやらこの日も、鬼には名前を殺す気がないようだった。幸運なことに。
 それじゃあまたね、と、まるでまた遊ぶ約束を取り付けるかのような口振りのまま、鬼は宵闇へと姿を消した。それから名前は一晩中その鬼の姿を探し回ったが、結局見つけられぬままに朝日を迎えることとなった。

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