白夜の蛇蝎

 これほど奇妙な光景は、今まで一度も見たことがなかったし、もう二度と見ることはないだろう。貪るように齧り付いていた鬼は、名前の手首だったところを持つと、一枚一枚丁寧に爪を剥がし始めた。ぴん、ぴん、ぴん、ぴん。爪って、そんなに簡単に剥がれるものだったかしら。おはじきを弾くように、簡単に指から取れてしまう名前の爪。剥がされるたび、思わず身がびくりとなってしまうのは、条件反射というやつに違いなかった。もはや体の痛みも鈍くなり、もがれた腕だって気にならないほどなのに、剥がれた爪に痛みを感じてしまう気がするのは些かおかしな話だった。
 鬼は、名前に未だ意識があることに気が付いたらしい。ひひ、と鈍い笑い声が名前の耳に届いた。鬼の顔にあるまだらの痣が、蔑むように歪んでいる。「お前、まだ生きていやがるんだなあ。さっさと死ねたら楽なのに、可哀想になああ」
 馬鹿を言え、こっちはもう死ぬところなんだよ。腕の出血は止まらないし、お前の血鬼術の毒だって回り切ってる。それに腹圧で飛び出た腸が見えないのか? しかしながら、そんな憎まれ口を叩く気力も無く、名前は口の端を曲げるだけに留めた。
 面白くなかったのだろう、鬼はつまらなそうな顔で名前を見ていたが、やがて食事を再開した。指を咥え、一息に肉をこそげ落とすその様は、ある意味で芸術的ですらあったかもしれない。鬼が食べているのが名前の指でさえなければ。これまで幾百もの鬼を葬り、切り刻んできた名前の右手だって、まさかこれほど悲惨な最期を迎えるとは思わなかっただろう。
 日輪刀は踏み折られ、鎹鴉はどこかへと消えた。この鬼のことを、鴉が伝えてくれれば良いのだが。

 この日名前が遊郭にやってきたのは、ごく私的なものだった。花魁が行方不明――足抜けとはまた別で、姿を眩ます者が異様に多いのだという。知人の友人もその一人で、鬼が絡んでいる可能性を捨て切れなかったため、一人遊郭へと足を運んだのだ。実際に来てみれば確かに鬼の気配があり、無視することもできなかった名前は、鬼の手掛かりを探るべくそのまま調査を続けた。それが間違いだった。いざ対峙した鬼の女は上弦で、何とか首を落とせはしたものの、その女の背からまた新たな上弦の鬼が現れた。
 ――大体、反則じゃないか。頚を落としても死なないだなんて。
 名前はつい先刻、確かに女の鬼の首を切り落とした。刃のように鋭い帯を縦横無尽に操る難敵だったが、それでも柱の名前の敵ではなかった。これまでだって、もっと強い鬼と戦ったことだってあった。何十人もの人間を庇いながら戦ったことだってあった。首を落として油断した――そうではないと信じたかった。
 女の背から現れた男の鬼は、女と同じく瞳に数が刻まれていた。上弦の陸。十二人居るという鬼舞辻の配下の中でも、いっとう強い鬼。上弦の陸は二人居たのだ。血の斬撃を飛ばす鬼は、女の鬼と連携し、名前を追い詰めた。男の方がもともと強い鬼だったのだろう、名前は何度か女の首を斬り落としたが、それまでだった。女の鬼は死ぬことがなく、すぐさま再生してみせたのだ。彼らの首を、揃って切り落とさなくては意味が無いのでは。名前がそう気が付いたのは、男の鬼の血鬼術だろう猛毒が全身に回り切った後だった。
 兄妹なのですかと問い掛ければ、鬼は改めて名前を見据えた。


 陸の鬼達は、名前がもう動けないことを察すると、小さな言い争いを始めた。何てことはない、どちらが名前を食べるかと争っていたのだ。しかしよくよく話を聞いてみれば、女の鬼は名前の捕食を嫌がっており、男の鬼は無理矢理食べさせようとしているようだった。
「嫌よ! だってそいつ不細工なんだもん!」自分の腹に風穴が空いていなければ、名前は吹き出してしまっていたかもしれなかった。
 やだやだ、と、駄々を捏ねるような女の声。これが、先程まで殺し合っていた相手の片割れなのだろうか。まるきり子供のようなその口振りに、改めて名前は鬼という生き物を哀れに思った。この鬼は、ひょっとすると幼い時分に鬼になったのかもしれない。
「けどなあ、こいつは柱だし、お前が倒したんだぞ。あの方だって、お前が喰ったと知ればお喜びになるだろうになああ」
「……それでも嫌。顔だって不細工だし、それに、傷だらけじゃない。そんなの喰べたらアタシが醜くなっちゃうわ。お兄ちゃん、それでもいいの?」
「ううん……」
 男はそれから何度か女を説き伏せようとしていたが(「柱を喰えばお前にいっそう箔がつくぞ」「お前は美しいんだから、ちょっと喰べたくらいでその美しさは変わらないぞ」「あの方だってきっと喜ばれるぞ」)、女のあまりの強情っぷりに、やがては折れたらしかった。それから女の鬼はどこかへ姿を消し、男は地べたに屈み込んで落ちていた名前の腕を貪り始めた。
「そうだ」男の鬼は名前の問いに答えた。
「……へえ……私、兄妹の鬼なんて、初めて見ました」
「そりゃ良かったなあ」
 ちっとも良かったなどと思っていなそうな口振りで、鬼が言った。もちろん名前だって、そんな事実を知ったからと言って、嬉しくとも何ともない。

 お兄ちゃん。女の鬼は、この鬼のことをそう呼んでいた。
「……私も、鬼になれればよかったんですかね」
「あ?」
 怪訝そうな顔をする鬼の男。名前は男を見詰めながらも、幼い弟のことを思い返していた。幼い弟。背負った餅が重くて泣いていた小さな弟。お姉ちゃんお姉ちゃんと私の後をついて回っていた可愛い弟。父母を喰い殺し、名前にまで牙を剥いた哀れな弟。
 いっそ、あのまま喰われてやればよかったのだ。殺してやることだけが慈悲なのだと、そんな世迷言を信じたりなどせずに。
 名前に致命傷を負わせた二人の鬼が、本当の兄妹なのかどうか、名前には解らなかったし、そんな事はどうでも良かった。男の鬼は名前の攻撃をいなすだけでなく、妹の鬼を幾度となく庇っていた。まるで、それが兄妹愛だと言わんばかりに。泣いて命乞いをする弟の、その頭を潰し続けた名前とは正反対だ。
 喰われていれば、今頃弟は鬼としてだが生きていたのかもしれない、それが姉としての務めであって、びえびえ泣いている赤ん坊の弟を見た時に思ったじゃないか私が守ってやらなくちゃって、だから、だから、私はあの子を殺してあげて、だから。
 段々と、思考が纏まらなくなってきていた。これが死ぬということなのだろうと、名前は漠然と考えた。思えば、弟の顔が浮かんだのも、俗に言う走馬灯というやつだったのだろう。満面の笑みを浮かべて手を振る、私のたった一人の弟。都合の良い妄想を胸に抱きながら、私は死ぬのだ。あの子が手を振れなくしたのは私なのに。

「妹さんと、仲良くして下さいね」
 何十人もの人間を屠った相手とはいえ、彼らが兄妹だというのなら、名前の二の舞になって欲しくなかった。弟を守れるのは姉しか居なかったし、妹を守れるのも兄しか居ないのだ。名前はそう呟いて、やがてゆっくりと目を閉じた。



 妓夫太郎は呆気に取られていた。目の前で転がる人間をまじまじと見詰める。てっきり死んだと思ったが、どうやら気を失っているだけらしい。この女ほど、馬鹿な人間を見たのは実に数百年ぶりだった。遊郭で育ったどこぞの男よりも、よっぽど阿呆だ。

 戻ってきた堕姫は、剣士の女が未だ死んでいないことに気付くと、その端正な顔を不機嫌そうに歪めた。縊り殺した鴉を手にしている。「お兄ちゃん、まだそいつ殺してなかったの?」
「んー……」
「言っとくけど、アタシはそんな不細工、喰べるの手伝わないからね」
 手伝うも何も、お前、俺が食べなかった人間を食べたことなんてないじゃないか。もっとも妓夫太郎は妹の偏食っぷりは熟知しているし、それで良いとも思っていた。そのくらいは好きにさせてやりたい――そんな気持ちが、どういうわけか浮き上がるのだ。幸い妓夫太郎は鬼の中でも食欲の旺盛な方だったし、だからこそ十二鬼月になれたのだろうが。
 妓夫太郎は改めて死に掛けの柱を見下ろした。堕姫はこの女のことをさんざん不細工だと罵っていたが、妓夫太郎の目にはそれほど不細工には映らなかった。むしろ、別嬪の類に入るんじゃないだろうか。もちろん堕姫には劣るのだが。

 こいつは鬼にしようと思う、と妓夫太郎が口にすると、堕姫は「えーっ!」と悲鳴を上げた。
 それから、堕姫は妓夫太郎に何度もそんな不細工が同類になるのなんて嫌だ、そいつが無惨様の血を貰うなんて耐えられない、と駄々を捏ねたが、妓夫太郎が頷かないのを見ると今度は泣き落としにかかった。しかし、妓夫太郎は折れなかった。普段から堕姫の我が侭は――不細工は食べたくないといえば全て妓夫太郎が喰ってやっていたし、今日だって負けそうになった堕姫を助けてやっている――聞いてやっているのだから、たまには逆があったっていいだろう。それに、こいつが鬼になったところで、堕姫には何の関わりもないことだ。
「お兄ちゃん、何でそんな事言うのよう」
「さあなああ」
 堕姫は、すっかり不貞腐れていた。暫くこのままかもしれないが、妓夫太郎は気にしなかった。どれほど機嫌を損ねていても、妓夫太郎にとっては可愛らしい妹のままだ。兄を取られるかもしれない、などと馬鹿げたことを考えているのも愛らしい。

 この女の口振りからして、大方妹か、それとも弟かが鬼になったのだろう。そして、こいつはそれを見殺しにしたのだ。でなければ、あんなことを口走る筈がない。この女が鬼になった時、果たしてどんな顔をするのか――妓夫太郎はただそれだけが見たかった。
 元柱の人間となれば、鬼になった時の強さも保証されている。鬼舞辻も、この女を鬼にするのを嫌とは言わないだろう。それに人間だった時の記憶が残っていれば、鬼殺隊を滅ぼすのにも役に立つかもしれない。もちろん必ずそうなるとは言えなかった。呼吸を極めた人間は鬼化しない場合もあるというし、この女が鬼舞辻のところに行くまでに死ぬ可能性も充分にあるからだ。
 どう彼に願い出るべきなのか、妓夫太郎は暫く頭を悩ませた。

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