月が歪むとき

 あっ、と思った時には遅かった。出会い頭にピカッとやられ、名前はその時には彼――Y談おじさんと名乗る吸血鬼の術中に嵌っていた。ぐっと口を食い縛ったままY談おじさんを組み敷く名前だったが、むしろ窮地に陥っている筈の彼の方が、名前よりも数倍余裕があるようだった。名前の掌の隙間から覗く赤い瞳は、にんまりと弓なりに歪んでいる。「お嬢さんのような気の強い女性は、胸の内にいったいどんなY談を秘めているんだろうね。さ、このおじさんに話してごらん?」


 新横浜に拠点を移した名前は、退治人として日々奔走していた。やたらめったら高等吸血鬼が多いのだ、この街は。しかも催眠やら、グールやらを使いこなす吸血鬼の多いことといったら。確かに、下等吸血鬼も多いおかげで仕事に困ることはないし、しっかりしたギルドがあるのも有難いのだが、如何せん量が多すぎて割に合わない。通りで諸先輩方が大歓迎してくれた筈だ。あれは間違いなく哀れな子羊を見る目だった。
 この日の晩も、名前はパトロールを兼ねて新横の裏路地を歩いていた。デカい蚊が人を襲っているのが見えた名前はすぐさま蚊を撃ち抜き、被害者に駆け寄った。
「お怪我はありませんか」
「吸対課の服めっちゃエロい!」
「何て!?」
 その時、すっと視界に何かが差し出された。デカい蚊に襲われていたもう一人――膝を付いている彼の方が先決だと思い後回しにしたのだが、それが良くなかった。ステッキのようなそれは、名前が視認した瞬間、ピカッとまばゆい光を放った。「Y談の光あれ!」

 吸血鬼Y談おじさんと名乗った吸血鬼は、その催眠術で対象者にY談しか話せなくさせてしまうのだという。完全に意味が解らなかった。しかしながら、おかげで名前は性癖を暴露してしまった(「オールバックの男性の髪が不意に乱れた瞬間!(特別意訳:さっさと逃げて)」「解る! 吸対のかっちりした女の子達が首元のボタン外してるの最高!(特別意訳:ごめんなさい、ありがとう!)」)。
 どうやらY談おじさんは肉弾戦には弱いらしく、名前でも簡単に組み伏せてしまうことができたが、話そうとすれば自ずと性癖を拡散してしまうし、悪態をついてもY談が飛び出てしまう為、どうすることもできなかった。応援を頼むことも、VRCに連絡を取ることもできない。名前が羞恥心を捨て去ることができればどうとでもなるのだが、このにやけ顔の男が今後どういう目で自分を見るか、考えただけでも鳥肌が立つ思いだ。
 襲われていた男性は無事逃げたようだし、このまま朝まで待つのも手だろうか。
 ちなみに、名前は男が二人、蚊に襲われていると思ったのだが、どうやら獲物を――もっとも、Y談おじさんは捕食をする気はないようだったが――取り合っていただけらしい。クソだ。
「ふーむ、だんまりかァ。うら若いお嬢さんに押し倒されているシチュエーションも、なかなかそそるものがあるのだがね――駄目か」
 名前がぐっと唇を噛み締めているのを見て、Y談おじさんは小さく溜息をついた。どうやら名前を煽って口を開かせようと言う算段だったらしい。やれやれ、といった調子で目を閉じるY談おじさん。苛立ったら負けだ、と、自分にそう言い聞かせるのは、かなりの努力が必要だった。「こう見えても、私もあまり暇ではないのでね。またの機会に頼むよ、退治人のお嬢さん」

 Y談おじさんは名前の一瞬の隙をついて、名前の下から逃げ出した。慌てて走り出したが、Y談おじさんの逃げ足の速いことといったら。吸血鬼Y談おじさんはあまり危険度の高い吸血鬼ではなかったし、名前も初めて彼と相対してその理由が解ったが、好き勝手にピカピカされたら街中がひどいことになるのは火を見るよりも明らかだ。名前は覚悟を決めた。
 追いすがってきた名前にY談おじさんは度肝を抜かれたようだったが、名前が何かを言おうとしているのを見ると、嬉しそうに目を輝かせた。
「ナイスミドルを組み敷きたい!」
「そうそう君のそのY談を待ってたんだ――何だって?」
 名前が投げた対吸血鬼用の武器に足を取られたのだろう、Y談おじさんがよろけたその隙に、彼を壁際に追い詰める。
「ダンディーなおじさまが体力の衰えを感じつつもまだまだ負けないと頑張るいじらしさ!」
「ちょっ」
「後退しつつある額を実は気にしているその焦燥感!!」
「まっ」
「実は結構タイプです!!!」
「や――」Y談おじさんは、初めて焦りを露にしていた。「――やめろやめろ! 私は君がY談に慌てふためいて恥ずかしがっている様を見たいのであって、私が焦らされたいわけじゃないぞ!」
 結局その後、別の退治人が偶然近くを通り掛るまで、そのやり取りは続いた。名前からしてみれば、吸血鬼とはいえド好みの男性を間近で見ていられるのは願ってもないことだ。すっかり意気消沈したY談おじさんと、至極普通にしている名前を見て、退治人は怪訝な顔をしていた。

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