秋の朝

 名前は走っていた。それはもう、死ぬ気で走っていた。体育祭の徒競走でも、これほど必死にはならないだろう。脇腹は既に超弩級の痛みを名前にもたらしていたが、名前は止まるわけにはいかないのだ。何せ、あとほんの数分で、電車が出てしまう!
 何であの時、ご飯をお代わりなんてしてしまったんだろう? 名前は少しだけ後悔した。もっともあまり反省はしていなかったが。兎も角も、新米で炊いたご飯がおいしすぎるのがいけないのだ。朝ごはんを抜くのはヴィランの始まりだと小学校で習ったし、名前に非はない筈だ。
 今の名前はよほど死に物狂いの形相をしているのだろう、先を行く人の何人かが道を譲ってくれている現状が切なかった。

 手に持ったままの携帯を見てみれば、発射時刻まで残り数分を切っていた。名前が乗るべき電車は今、隣町の駅を出た頃だろうか。
 普段であれば、電車を一本遅らせたところで何の問題も無い。しかし今日は元々寝坊をしてしまい、普段乗っている電車は既に逃していた。次に最寄り駅に着く電車が、始業時間に間に合う最終電車なのだ。ほんの少しの遅刻なら多少成績に影響が出るくらいだが、今日は前期期末試験最終日であり、遅刻は即ち死に直結してしまう。是が非でも遅刻は許されない。
 ――敵でも出てくれれば、遅延証明書を貰えて、再試だってしてもらえるのに。
 そんな不謹慎なことを考えつつ、名前は走りに走った。もうこれ世界記録出てるよ絶対。

「めっちゃ走ってんね」
「ホークス!」
 話し掛けられたと思ったら、すぐ隣にヒーローのホークスが浮かんでいた。浮かんでいたというか、飛んでいた。名前が息せき切って走っているというのに、彼にとってはこの程度の飛行は別段何てことないらしく、涼しげな顔で名前の横を飛んでいる。
 ホークスの事務所は名前の家のすぐ近くにあり、その関係もあってホークスとは顔馴染みだった。少なくとも、彼が名前の顔と名前を把握しているくらいには知り合いだ――世間では速すぎる男と呼ばれているらしいが、名前からしてみれば一番馴染みのあるヒーローなので何だか変な感じだった。
「今頃登校? 遅くない?」
「だからっ、一生懸命、走ってるんでしょうが!」
 言い返しつつも勢い余って噎せ込む名前に、ホークスは煩わしそうに眉を寄せた。この野郎。「今日はっ、テストなのっ! 邪魔するんならどっか行ってよ!」
 敵が出没していようとしていまいと各地を飛び回っているホークスは、こんなところで油を売っている暇はない筈だ。
 彼に気を取られ、電車を逃してしまう事態だけは避けたい名前だったが、ホークスはといえば「テストかあ……」と一人しみじみしていた。こ、この野郎……!
「仕方ないな」
 ホークスがそう呟いたと思った瞬間、名前の視界からホークスが消えた。そして軽い衝撃が走ったと思ったら、名前は宙に浮いていた。
「ほ、ホークス……」
「駅まで送ってあげるから、ちゃんと掴まってるんだよ。上り線であってたよね?」
「ホークス大好き!」
「はいはい」
 名前を抱き抱えたホークスは、そのまま駅のホームまで送ってくれた。かなり目立ってしまったが、おかげで一時間目にはなんとか間に合うだろう。「ありがとー!」とぶんぶんと手を振る名前に、ホークスも小さく手を振り返した。



「――あっ」
 名前の小さな声が聞こえたのだろう、ホークスは振り返った。名前に気付いたらしいホークスは、「間に合った?」と小さく首を傾げてみせた。どうやら朝のことを覚えてくれていたらしい。
「バッチリ! ありがとホークス」
「そりゃ良かった」
 ホークスはこんなとこで何してんの、と名前が尋ねると、ホークスは少しばかり顔をしかめたようだった。どうやら暇人扱いされたのが気に障ったらしい。
「俺だって色々あるんだよ」
「ごめんってば」名前は素直に謝った。「ねえ、朝は本当にありがとうね。ほんと助かったんだから」
「いいってしつこいな」
「うん」
 背中の翼が若干小さくなっている辺り、何か事件を解決した後というところだろうか。彼の“個性”は剛翼といい、その強靭な羽を自由自在に操ることができる。そしてその一枚一枚の羽で、彼は数々の事件を解決してきた。羽を刃物のようにして敵を攻撃することは勿論、災害救助にだって――ふと、名前は思い至ったことがあった。
「ホークス」
「何?」
「あのさ、朝、何で駅まで連れてってくれたの? “個性”使えば、私一人くらい余裕で運べたんじゃない?」
 ――そう、ホークスは今朝、名前を抱えて駅まで飛んで連れていってくれた。考えてみれば、彼の剛翼をもってすれば、わざわざホークス本人が送らずとも、名前を一人送り届けるくらい訳ない筈なのだ。

 羽の節約?と名前が尋ねた時の、その彼の顔と言ったら。「……名前ちゃんさあ」
「……え、何、私間違ったこと言ってない……よね?」
「別に」ホークスは、かなり渋い顔をしていた。
「……最近の子は早いって聞いてたのに、これだからなあ……」
「何? 今何か言った?」
「別に」
 ホークスはぶっきらぼうに言った。彼はそのまま翼を拡げ、「暗くならない内に帰んなよ」と言い残して空の向こうへと飛んでいってしまった。もしや、何かとても勿体無いことをしてしまったのでは。名前がそう気付いたのは家に帰り、夕食を食べているその時だった。もっとも、すぐにそんな考えは消えてしまったのだが。今日もご飯がおいしい。

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