頬紅

 堕姫にとって、遊郭に棲むのはさほど難しいことではなかった。人間に紛れていれば食料はいつでも調達できるし、人間の男共に誉めそやされれば胸の内が少しだけすっとした。鬼狩りが来たとしても、夜の街はいつも堕姫達に味方をしたし、地下に張り巡らしてある網を使えば万が一の時も逃げることができたので心配は要らなかった。一つだけ堕姫を煩わせるものがあるとすれば、遊郭での人間との付き合いだ。


 襖の向こうから、控えめな声が堕姫を呼び掛けた。「戻りました」
 入りなと堕姫が言えば当然顔を出したのは新造の名前で、「戻りました」と再び口にした彼女に、堕姫は内心で溜息を吐く。

 新造の名前は、堕姫が面倒をみてやっている妹分の一人だった。これが何とも不細工な女で、この調子では仮に水揚げが済んだとしても、ろくに客も取れないだろうと堕姫は睨んでいた。そもそも、遊女になれるかすら怪しいところだったが。
「買ってきました!」
「大声をはりあげるんじゃないよ、騒々しい」堕姫が言った。「ちゃんと間違わず買ってきたんだろうね」
 堕姫が叱り付ければ名前はしゅんとしたが、すぐに買ってきたもの――白粉や、紅なんかを並べだした。堕姫が買出しを言いつけたものだ。日の下を歩けない堕姫に代わり、こうして名前が町へ必需品を買いに行くのが、二人の間では常だった。
 本来であれば、そういったことは新造の仕事ではない。しかしながら花街に来てからの数年間、名前はずっと堕姫の下についているので、今更不思議には思わないのだろう。もちろん本人がずば抜けて頭が悪く、気が付いていないという可能性もあるにはあるが。


 足抜けした遊女を喰うのと違い、新造や禿を喰べるのは困難だった。自分の下についていた人間ばかりが続け様に消えては、いくら何でも怪しまれてしまうからだ。
「……ふぅん、ちゃんと言った通りのものを買ってきたみたいだね」
「えへへ」
 嬉しそうに笑う名前に、堕姫は「褒めちゃいないよ」と釘を刺した。

 堕姫の下に来る妹分達は、定期的にころころと入れ替わる。大半が、堕姫の振るう暴力に耐えられなくなるからだ。最初、遊郭に来たばかりの頃(といっても百年以上前の話だが)は、自分が面倒を見ている禿でさえ殺してしまったこともあった。店に居られなくなるような事態になれば、逐一顔を変え、名前を変えなければならないので、出来る限り辛抱するように努めてはいるが、日々溜まる鬱憤を晴らしたくなるのは仕方の無いことだった。
 そんな中、名前という新造は、堕姫にとって非常に都合が良かった。
 名前は器量こそ良くないものの、よく働き、よく堕姫の意図を理解した。堕姫の言いつけはきちんと守ったし、堕姫が日の下を歩けないことにも一切の疑いを持たなかった。名前は、堕姫を怒らせることが極めて少ないのだ。遊女として大成するかは解らないが、堕姫のような気分屋の下で生きていられるのだから、少なくとも職には困らないだろう。
 多少堕姫が人間離れした振る舞いをしたとしても気が付かないことも、堕姫が名前を側付きにしている理由の一つだった。頭の作りが悪いのか、それとも殊更に鈍いのか。
 教養も無く、それでいてよく働く名前は、堕姫にとって非常に使い勝手の良い人間だった。不器量な女が回りをうろちょろしているのは目障りでこそあったが、食べるわけでもないのだから大きな問題はない。

 買いに行かせた紅やら白粉やらを化粧箱に仕舞っていると、ふと使いさしの紅が目に付いた。殆どあってないようなものだったが、堕姫はそれを容器ごと名前に投げて寄越した。「アンタにあげる」
「え、あ、ありがとうございます……」
「お前みたいな不細工でも、多少ましにはなるだろうさ」
 まごまごと、珍しく落ち着かない様子の名前に、堕姫は些か不思議に思った。まさか、今更醜女扱いに傷付いたわけではないだろう。堕姫が彼女を不細工呼ばわりするのは今日に始まったことではないし、名前だって大なり小なり自覚はある筈だ。
 むしろ、名前は不細工なことを誇りに思うべきなのだ。もしも名前が美しければ、この先堕姫に食べられていた筈だからだ。
「まさか使い方が解らないわけじゃないだろう」
 煮え切らない返事をする名前に、堕姫は痺れを切らして渡したばかりの艶紅を奪い取った。「ほら、こっちをお向き」薬指に紅を差し、そのまま名前の唇に塗りつけてやる。はくはくと口を開閉させる名前に、堕姫は動くんじゃないよときつく言いつけた。
 二度、三度と紅をつけてやれば、名前の唇は赤く縁取られた。
「アハ、ま、ちょっとはましになったんじゃないの?」
 不細工は不細工だけどね。堕姫がそう言って笑うと、名前も照れ臭そう笑い、「ありがとうございます」と呟くように言った。頬紅をつけてやった覚えはないが、その頬は微かに赤く染まっていて、それがほんの少しだけこの女を美しく見せていた。
 ――もしも死ぬ間際にもこんな顔で自分を見詰めたら、その時は、この頬の一つくらい齧ってやってもいいかもしれない。
 堕姫はそんなことを思いながら、未だ呆けている様子の名前の頭を軽くはたいたのだった。

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