分けて貰った藤の花を活けていた時だった。玄関口から物音がして、少し遅れて「帰ったぞー」という声が名前の耳に届いた。名前は慌てて駆け出し、男を――宇髄を出迎える。
 戸口で草履を脱いでいるのは、当然屋敷の主である宇髄天元だった。その半歩後ろには雛鶴が立っている。どうやら任務で一緒になったらしい。お帰りなさいませ、と三つ指をつき頭を下げたが、宇髄は「おう名前」と名前の顔を見ることなく口にした。放り投げられた脚絆を慌てて抱き止める。「旦那様、奥方様、お怪我はございませんか?」
「ええ、大丈夫。天元様もご無事よ。ありがとう名前」
「それはようございました」
「それより名前、飯だ、飯にしてくれ」
「はい、すぐに」
 名前は一礼して踵を返したが、雛鶴が「私も手伝うわ」と声を掛けてくれ、名前達は二人で台所へと向かった。

 宇髄が雇い入れている使用人は名前一人だけだ。名前が拾われる前は、この家は宇髄と彼の奥方三人で暮らしていた。当然ながら日々の雑用も、何から何まで彼女達がこなしていた筈だ。炊事に洗濯、その他雑用も全て。
 雛鶴は中でも料理上手だった。作る料理がどれも美味しいのはもちろんの事、自分が食べたことの無い異国の料理まで全て美味しく仕上げてしまう。くノ一としては当然のことよと雛鶴は言ったが、それでも宇髄が美味いと言って褒めると、彼女はいつでも照れたようにはにかむのだ。手の空いた時、名前は彼女に料理を習うのが常だった。
「――よし、これで良いか。ありがとうね名前、いつも助かってるわ」
「いえ……」
「さ、運びましょうか」
 膳を手に、すたすたと歩いていってしまう雛鶴。その後を慌てて追い掛ける。「天元様、夕餉をお持ちしました」

 隊服から着替えた宇髄は、窓際で涼んでいるようだった。どうやら雛鶴が言ったように怪我は無いようだ。彼らの食事が終わったら、すぐにでも風呂を沸かさなければ。脇にある机には、先程活けていた藤が――どうやら、宇髄がここまで運んだらしい――飾ってあり、名前は少しだけ面映い気持ちになった。
 藤の花は、宇髄達の帰宅に気を取られ、途中で放り出していた筈だが、宇髄がきちんと活け直したようだった。華道に詳しくない名前でも、一目で美しいと解る仕上がりだ。忍びとしての教養なのか、それとも宇髄の感性の為すものなのか。名前には判断がつかなかったが、その淡い紫の花は、ひどく――。
「どうした、名前」
 名前の思考を読み取ったのか、宇髄がそう声を掛けたが、名前は何でもないと首を振ることしかできなかった。



 ごめんください、という鈴を転がしたような声に、名前は急いで玄関へと向かった。宇髄と奥方達は、皆が鬼殺の任へ出ている。いつ帰ってくるとも知れず、客人であるならば断りを入れなければならなかった。
 戸口に立っていたのは妙齢の女性だった。しかしながら宇髄と同じく鬼殺隊の隊服に身を包んでおり、彼女も立派な剣士なのだと知れる。思った通り、「宇髄さんいらっしゃるかしら」と尋ねた彼女に、名前は慌てて留守の旨を伝えた。
「そうなの、残念だわ」
「あ、あの」しゅん、と残念そうに眉を下げる女剣士に名前が声を掛けたのは、藤の家に生まれた者としての、いわば本能のようなものだろう。もしかすると、彼女があんまりしょげ返った様子だから、居た堪れなかったのかも。「もしよろしければ、暫くの間おやすみになられますか?」

 宇髄がこの日の内に帰ってくるという確証は無かったが、名前は女を――甘露寺蜜璃を屋敷へ上げた。「このお茶すごく美味しいわ、ありがとう名前ちゃん」
「い、いえ……」
 つい今しがた注いだ筈の湯呑みが空になっていて、名前は自分の目を疑った(そして慌てて注ぎ直した)。
 聞けば、甘露寺は柱なのだという。元より剣士のことは皆尊敬しているが、甘露寺は名前よりほんの少し歳が上といったくらいで、彼女のような年端のいかない女の子が柱として鬼殺隊を支えていると思うと、居た堪れない思いがした。
 多分、旦那様方も、私が甘露寺様のお世話をしたとしても、怒ったりはしないだろう。
 名前はそれからの数刻、甘露寺の為に風呂を炊き、隊服を洗濯し、食事を作り(彼女はとてもすごくお召し上がりになられた)、寝所を整えた。もっとも、暮れ時に宇髄が戻ってきた為、彼女がこの屋敷で一夜を明かすことはなかったのだが。「……何やってんだ」
「はっ……お、おかえりなさいませ、旦那様」
「おう」
「まあ、宇髄さんこんばんは。あっ、名前ちゃん、ごはんお代わり貰ってもいいかしら」
「あっ、はい、只今」
「ありがとう」
 見慣れぬ履物があったから気配を殺して入ってきたのだという宇髄は、胡乱げな眼差しで名前達を見ていた。
 それから宇髄は少しばかり甘露寺と話をすると、すぐさま彼女を家から追い出してしまった。名前は慌てて甘露寺を追い掛ける。「も、申し訳ございません甘露寺様、旦那様も、怒っていらっしゃるわけではないと思うんですけど……私、甘露寺様がお泊りになれるよう、旦那様にお願いして参ります」
「あ、いいのいいの、気にしないで名前ちゃん。どうせ私、今からお仕事だもん」
 にこっと笑ってみせる甘露寺に、名前は胸が痛くなった。「甘露寺様がご無事でいらっしゃいますよう、心から願っております」
 名前はそう言って頭を下げたのだが、次に顔を上げた時、甘露寺が微かに顔を赤らめていたので名前は内心で首を傾げた。
 名前ちゃんったらなんていい子なのかしら、きゅんきゅんしちゃう――惚れっぽいことに定評のある甘露寺は心の内でそんなことを考えていたのだが、当然名前には伝わらず、ただ困惑するばかりだった。「甘露寺様……?」
「ふふ、名前ちゃん、宇髄さんをよろしくね」
「え、はい――」
 名前が頷いた時だった。目を伏せた一瞬の間に、甘露寺の姿が消えていた。どこへいったのかと目を凝らせば、門の向こう、仄暗い通りの先の先に、淡い桃色が垣間見えた。名前はもう一度頭を下げ、家の中に戻った。


 暫くぶりに屋敷へと戻ってきた宇髄は既に寛いだ様子だったが、それでもどこか憮然とした様子だった。怪我が無いらしいことは明らかで、名前はどことなくばつの悪い思いで「申し訳ありません旦那様」と言った。
「別に、良いけどよ……」
「お食事になさいますか? お風呂も沸いておりますよ」
「あいつ俺ん家で風呂まで入っていったのかよ!」
 名前が答えられないでいると、宇髄はやがて溜息をつき、「いいよ」と小さく言った。「風呂沸かしてくれ」
「はい」
「あとな」
「はい?」
 立ち上がった宇髄を見上げる。何故か言い辛そうにしているように感ぜられたが、やがて宇髄は口を開いた。「俺だけを崇めてれば良いんだよ、お前は」

「……もちろん、旦那様のことは尊敬しておりますし、とても有難く思っておりますが……」
「――だよな」
 小さくにやっと笑い、それからすたすたと歩き出した宇髄。向かう先は当然風呂場だ。名前は慌ててその大きな背を追いかけた。

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