今から俺が、お前の神だ――宇髄の言葉を飲み込むには、幾日かが掛かった。いや、むしろ、名前は一月経った今でも、彼の言葉の意味をはっきりとは理解していなかった。確実に解っているのは、宇髄が鬼殺隊の剣士だという事と、かなりの派手好きだという事、それくらいだ。
 父母を荼毘に付したあの日、名前は家の敷居を跨がなかった。そのままの足で宇髄の屋敷に連れて来られたからだ。宇髄は、小間使いが欲しかったのだと言った。
「うーん、多分、名前の事を気に入ったんじゃない?」
 苦笑を浮かべつつも、そう言って名前の頭を撫でたのはまきをだった。

 宇髄には三人の妻が居た。彼女達は皆美しく、それでいて宇髄と同じく鬼殺の剣士だった。最初、名前は三人も妻が居るというのは――しかも、内縁の妻というわけではなく、皆同じ屋敷で生活している――あまりに時代錯誤なのではないかと思いはしたものの、どちらかというと、彼らは上官とそれを慕う部下という間柄のように感ぜられた。聞けば、鬼殺隊に入る以前からの付き合いだというし、宇髄と彼女達は夫婦以上に気の置けない仲なのかもしれない。

 宇髄の奥方達は、皆それぞれ名前の事を妹のように可愛がってくれたが、名前が一番懐いているのはまきをだった。一番始めに会ったからということもあるし、それ故に一番面倒を見てくれたからということもある。
 元々、使用人を雇おうと考えていらっしゃったみたいなのよ、とまきをは言った。
 宇髄達は皆、鬼殺隊に属している。鎹鴉を通じて下される指令は、同一のものもあれば、当然違う任務のものもある。また、任務の期間が重なってしまう事もままあり、全員が家を離れてしまう事も少なくなかったのだという。名前としては、自分のような子供が居たところで万が一の時に対応できないじゃないかと思ったのだが、宇髄には宇髄の考えがあるらしかった。
 実際のところ、名前は宇髄に感謝していた。生家を離れる事に対し、名状し難い気持ちになりはしたものの、誰も居ない屋敷で暮らしていく事を思うと、ひどく居た堪れなかった。名前の家は、遠縁にあたる老夫婦が暮らす事になったと聞いている。

「名前ー」
 名前ははっとした。すぐさま「はあい」と返事をし、声の主の元へと向かう。取り入れたばかりの洗濯物も一緒にだ。
 宇髄の部屋の前に着くと、名前は一言断りを入れ中へ入る。旦那様、お呼びでしょうか――そう言って顔を上げた名前は、思わずぎくりとした。支度途中だったのだろう、宇髄は下穿きを履いてこそいるものの、殆ど半裸だった。その上で、何やら書状に目を通している。大方、支度の途中で鴉が書状を届けたのだろう。何というか――。
「おう、名前」
 名前の動揺に気付かなかったのだろうか、宇髄は至極何でもないようにそう声を掛けた。いや、まあ、使用人に半裸を見られたところで、特に何を思うという事もないのかもしれないが。
「旦那様、お召し物をお持ちしました。今日は良い日和ですからすぐに乾きました。さっぱりして気持ちがよいですよ」
「……おお、有難う」
「すぐに出られるのですか? 何かお食べになられますか?」
「いや、良いよ」
「左様でございますか」
 どうやら元々隊服の下に着る肌着を探していたらしい。名前は宇髄に服を渡し、早々に部屋を後にするつもりだった。この様子だと、宇髄はすぐにでも鬼殺の任へ出向く筈だ。見送りの準備をしなければ。まきを達は皆別々の任務に出ているし、彼らが皆無事に帰ってくるまでこの家を守らないと――名前を一礼をし、部屋を出ようとした。
「ん――おい、待て名前」
「はい、何でございましょう」
「これやってくれ」
「……はい?」


 名前はほとほと困り果てていた。目の前には、しっかりと目を閉じた宇髄が座っている。そして名前の手には、紅と化粧筆が握られている。「あのう……旦那様……」
 名前の情けない声を聞いてだろう、宇髄はぱちりと目を開けた。
「そんなに緊張するようなことか? ただ線を引くだけだろうが」
「はい……しかし……」
 宇髄は、微かに笑ったようだった。

 派手好きな宇髄は、鬼殺に出る時はいつも左目に花を模した化粧を施していた。気合をいれる為らしいと、以前須磨が言っていた。おそらくは戦化粧のようなものなのだろう。
 普段は彼の嫁達が我先にとその役を買って出ていたが、今はその嫁達が誰も居ないから名前に頼みたい、と、どうやらそういう事らしい。理由は解らなくもないが、それにしても、名前のような人間が触れていいようなものではないと思う。
 名前の考えはそっくり顔に出ていたらしく、宇髄は喉の奥でくつりと笑った。「名前、深く考えるなよ。文様はいつも見てるだろ? ド派手に描いてくれりゃあそれで良いんだ」
「はあ……」
「ん」
 宇髄は再び目を閉じた。仕方なく、名前は筆を取る。

 当然ながら、彼の奥方達のように上手く描くことは出来なかった。形は歪だったし、線は歪んでしまっている。しかしそれでも宇髄は満足したらしく、早々に身支度を整えると「行ってくる」と言い残し、やがて屋敷を後にした。
 宇髄のような芸達者な男なら、例えまきを達が居なくとも、化粧くらい自分で出来たのではないか――と、そう名前が気付いたのは、彼が家を空けて数刻が経った頃だった。

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