藤の花が咲いてさえいれば、安寧は訪れるのだと信じていた。


 淡くまろやかな香り漂う屋敷の中で、真っ先に目を引いたのは辺りに飛び散ったアカだった。物盗りだったそうだ。
 名前はその日、たまたま家を離れていた。隣町まで香を買いに行っていたのだ。代々伝わるやり方で、出来る限りの期間で藤を咲かせてはいるものの、藤襲山のように一年中花を咲かせることは不可能に近い。藤の家紋を持った名前の家でも、定期的に藤の花を模した香を買いに行かねばならなかった――ほんの僅かな一刻でも、鬼狩り達が安心して眠られるように。
 名前は鬼に襲われることなく帰路についた。いっそ一緒に死んでいればよかったのだと、ふと名前がそう思ったのは、葬儀がすべて終わった後だった。

 大きな桐箱を抱えたまま、ゆっくりと屋敷までの道を歩く。時折箱から漏れ出るがさがさという小さな音が、名前の感じる空虚さをいっそう確かなものとしていた。今となっては、藤の色に染まり切った自分の髪すら厭わしい。
 墨でもかぶってしまえばいいだろうか。と、名前がそんな事を思った時だった。門の前に、人影が見えた。
 名前は、じいと目を凝らした。どうやら二人連れのようだった。線の細さからして、男と女が一人ずつ。その後姿に見覚えは無かったが、自分でも気付かぬ内に、名前は早足になっていた。男の背には、二振りの刀があった。


「――遅えんだよ!」
 駆け寄った名前の気配を感じたのだろう、男は――鬼狩りの男は振り返り、名前をそう怒鳴り付けた。しかしながら、瞬く間に表情を一変させる。
「鬼殺の剣士様ですね」名前は息を整えつつも、急いでそう口にした。それから、怪訝そうな表情を浮かべる男に向け、丁寧に頭を下げる。抱えたままの桐箱が、からりと小さな音を立てた。「お待たせ致しましてすみません」
「ですが、申し訳ありません、本日は剣士様をお迎えする事ができないのです」
「あぁ?」
 すみません、と、名前はもう一度頭を下げた。
 葬儀が行われるまでの数日の間、屋敷は出来る限り綺麗にした。血の跡は消したし、荒らされていた室内も大体は綺麗にした。近所の人も手伝ってくれたので、ほぼほぼ元の状態にする事が出来た。しかし、客を迎えられるかというと、話は全然違ってくる。
 ぎこちのない笑みを浮かべる名前。そんな名前の前で、男女は一瞬目配せを交わした。当然、名前は気が付かなかったが。
「……主人はどうした」
 そう言ってから、男は名前の父の名を出した。おそらく、彼は以前にも名前の家に寄ったことがあるのだろう。しかしながら、名前は男の問いに答えなかった。「お怪我はございませんか」と尋ねると、男はきゅっと眉根を寄せる。左目に施された派手な化粧が僅かに歪んだ。
 やはり、気分を損ねてしまっただろうか――しかし、まさか、「父は今私が胸に抱いております」などとはいくら何でも口に出来ないだろう。しかも、藤の家を頼りにして訪れたのであろう、鬼狩りを相手に。
 名前の家は、ずっと昔に鬼狩りに命を救われたことがあるのだという。以来、鬼滅を意味する藤を家紋とし、人知れず鬼殺隊を手助けしてきた。食事や宿泊の場を提供したり、怪我を負った剣士の為に医者を呼んだり。名前自身が鬼狩りに助けられたことは無いのだが、それでも、名前は剣士を皆尊敬していた。この二人も、そんな名前の家を頼りに訪れたに違いなかった。

 自分を見下ろす鬼狩りの男を、名前は黙って見上げていた。若い男だった。以前にもこの家に寄ったことがあるのならば、名前も覚えていて良さそうなものだが、生憎と心当たりは無い。
 先程、開口一番怒鳴り付けられたことから、彼はあまり気の長い性質ではないのだろうと名前は踏んでいた。――幸い、彼らに怪我は無さそうだ。背筋はしゃんとしているし、衣服に汚れは見当たらない。名前の家に迎え入れることは出来ないが、近くの宿を取ることくらいはできるだろう。二里ほど東へ行った場所に、馴染みの宿がある。寒空の下、彼らを更に待たせてしまうことになるのは大変心苦しいが、それが今名前に出来る精一杯だ。
 名前は男の動向を伺っていたが、やがて男は「オイ」と顎をしゃくった。てっきり、名前は自分に向けられたものだと思ったのだが、頷いたのは名前ではなく連れの女の方だった。あっ、と、言う間もなく、名前の視界から女が消える。
 呆気に取られていた名前だったが、男の声にハッと我に返った。「行くぞ」
「は……あ、あの?」
「良いから来いっつってんだよ地味な奴だな!」
「すみません!」
 名前は慌てて頭を下げようとしたが、男はそんな名前の手をむんずと掴み、のしのしと歩き出した。


 ――いったい、どうしてこんな事に。
 名前はてっきり、鬼狩りの男に質問攻めにされるのだろうとばかり思っていた。どうして家人が居なかったのかだとか、どうして名前以外の人間が帰ってこないのかだとか。しかしながら今、男はただ名前の隣に腰掛けているだけだ。胡桃餅を間に挟んで。
 繁盛しているとは言い難い茶店の軒先で、名前と男は肩を並べて座っていた。男は、始めに「アレとソレ」と注文した時と、餅が運ばれ暫く後に「食わないのか」と言った時以外は少しも言葉を発さなかった。
 もしかすると、名前が口を開くのを待っているのかもしれない。しかし名前のような小娘が、彼のような大男を相手に、達者な口が利ける筈もないのは、至極道理ではなかろうか。
 胡桃の練り込まれた小さな餅が、一つ二つと消えていく。
 やっぱり、ちゃんと話を聞くべきなのでは――名前が意を決したその時、名前達の眼前にどこからともなく女が現れた。名前は思わずびくりと身を震わせたが、鬼狩りの男はどこ吹く風で、「おう、まきを」と当然のように言った。彼女は先程門の前で姿を消した、男の連れだった。

 立ち上がった鬼狩りの男と、まきをと呼ばれた女とが、低い声で何事かを話している。彼らが声を潜めていることと、早口で喋っていることもあり、内容は判然としなかった。名前に一瞥も寄越さず話し続ける彼らを前に、まるで急に自分のことが見えなくなってしまったのではないか、と、そんな錯覚を覚える。
 抱きかかえたままの桐箱に、ぎゅっと力を入れる。
 不意に、男が名前を見遣った。派手に彩られた男の目が、静かに名前を見下ろす。男は、自らを宇髄天元と名乗った。「今から俺が、お前の神だ!」

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