さまよいびとの挽歌

「ほら江渡貝くん、集中集中」
 いつぞやの月島の真似をしているつもりなのか、名字はからからと笑いながらそう言った。
 邪気の無いそれに、普段だったら何も思わなかっただろう。しかしここ数日の江渡貝は、刺青らしい色が出せず行き詰っているところだった。当然、名字のそれにもひどく腹が立った。
「うるさいんですよッ! 名字さんなんて口ばっかり!」
 きいっ、と、癇癪を起こした振りをしてみせると、名字と前山は二人揃って顔を見合わせた。

 彼らは――名字と前山、そして軍曹の月島だ――この夕張に暫く滞在することになっていた。江渡貝の作業状況の進捗を確認する為、そして同時に、江渡貝が刺青人皮のことを外に漏らさないよう見張る為。いずれにせよ江渡貝には鶴見の役に立ちたい一心だったので、彼らの存在は特に必要とは思わなかったのだが、日々の買出しを買って出てくれたりと助かることも多かったので好きにさせていた。どうやら今は月島が外に出ているらしい。
 困ったように顔を見合わせる彼らは、軍服さえ着ていなければ、到底軍人には見えなかっただろう。北鎮部隊――名字も前山も、ひとたび戦場に出れば人を殺すだけの機械になるなんて、とてもじゃないが信じられなかった。前山は人の良さそうな顔をしているし、名字は江渡貝とそう歳も変わらない筈だ。「俺達は剥製屋じゃないんだぜ、江渡貝くん。手伝ってやりたいのはやまやまなんだが」
「なら鶴見さんの話をして下さいよ、何の為に居るんだか解りゃしない」
 江渡貝がそう言うと、名字はますます困ったような顔をした。

 彼らが此処に居るのは江渡貝に仕事をさせる為であって、江渡貝に気持ちよく仕事をさせる為ではない事は確かだ。しかしその日から、名字は時折鶴見に関しての話をしてくれるようになった。
 名字の話は、軍の機密に触れるわけにはいかないからだろう、取り留めの無いものばかりだった。鶴見が好いている団子のこと、案外動物好きだということ、洋琴にも堪能だということ。ついつい話し込んでしまう名字が、江渡貝と揃って月島に叱られることも少なくなかった。
 次第にネタが切れてきたのか、名字が軍に入る前の話なども話すようになったが、彼が話し上手なこともあって、それらは決して不快ではなかった。
 それに、アイヌである名字の話は、剥製を作る上で参考になることもあった。「この刺青は正中線に沿って彫られている」
「正中線?」
 名字はトルソーに掛けられた刺青人皮を指差した。それから縫い目に沿って、指を上下させる。
「体の中央に通ってる線のことさ。頭から股まで、腹側と背中側の両方にある。猟師はこの線に従って皮を剥ぐ。その方が解体しやすいからな」
「へえ……」
 猟師が皮を剥ぐのは、剥製にする為に皮を剥ぐのとはまた違う。江渡貝は剥製を作る時、大概卸された毛皮を使っていたし(剥製にするよりも普通に売り払う方が割が良いのだろう、江渡貝に良い顔をする猟師はあまり居なかった)、毛皮を取ってくる猟師になるべく傷をつけないようにと頼むことはあっても、皮の剥がし方まで指定したことはなかった。腹側を縦に捌かれているのは、単に先に内臓を取り出すからだろうと思っていたのだが、彼らには彼らなりの事情があったらしい。
 揚々と、毛皮の剥がし方について話す名字。彼はきっと、上手く皮を剥いでみせるのだろう。アイヌの民族服を身に纏い、狩りをする名字は、不思議とすんなり想像することが出来た。


 それを言った時、名字はうっすらと笑っていた。「――カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム」
 鶴見という軍人にとって、この偽の刺青人皮がどれほど重要なものなのか、江渡貝には解らない。この刺青が暗号になっているとは言っていたが、解き明かすことで何が起こるのかまでは教えてくれなかった。もっとも、知りたいわけではなかったが。
 例え何にもならなかったとしても、江渡貝は鶴見の役に立ちたかった。自分を認めてくれた、ただ一人のひとの役に。

 思ったような色が出せず、頭を抱えていた時だった。
「……何? 何ですか?」
 ボクにも解るように言って下さいよと江渡貝が言うと、名字はますます笑った。言葉の響きからして、アイヌ語だったに違いない。「役目無しに降ろされたものは一つも無いって言ったんだ」
「何の話ですか?」
「俺達アイヌは皆、すべてのものは天から降りてきたものだと考える。人もカムイも。何故かというと、俺達にはこの地上ですべき役目があるからだ」
 江渡貝は目を細めて名字を見た。それが何だと言うのか。生憎とアイヌの御伽噺に興味はなかったし、そんなものを話すくらいなら、鶴見の話でもして欲しい。「江渡貝くんの場合は、その偽の刺青人皮を仕上げることが役目なんだろう。君はきっと、鶴見中尉殿のお役に立つ為、こうして生まれてきたんだぜ」

 君が偽の刺青人皮を完成させたら、きっと鶴見中尉殿もお喜びになるぜと、名字は言った。
 きっとそれは、江渡貝を元気付ける為に口にしただけなのだろう。しかしながら、朗らかに笑ってみせる名字に、江渡貝は何と言えばいいのか解らなかった。
「……なら、名字さんの役目は鶴見さんを此処に連れてきてくれる事ですね」
「はは、わかったわかった」



 江渡貝は走っていた。前山が殺された。前山を撃った男は軍服を纏っていたが、彼は仲間ではないのだろうか。一つだけ解るのは、このままでは鶴見の役に立てないということ。
 あの場から出るために纏ったホッキョクグマの皮は、ひどく走り辛かった。着る為に拵えたわけではないから当然だ。ふと、前方に小さな人だかりが出来ていることに気が付いた。どうやら誰かが倒れているらしかった。辺りには血が飛び散っている。人を掻き分けつつ、急いで横を通り抜ける。
 垣間から覗く見慣れた軍服に、江渡貝は一瞬息を呑んだ。
 名字だった。たちの悪い暴漢に襲われたのか、それとも先程の男に撃たれたのか。彼が何故倒れているのか、江渡貝には解らなかった。そして生きているのか死んでいるのかすらも。もし生きているのであれば、この血の量だ、すぐにでも医者にみせなければ助からないだろう。
 しかし――江渡貝は足を止めなかった。走り続けた。刺青人皮を腕に抱いたまま。何故なら、それが江渡貝の役目だからだ。

 江渡貝は名字について何も知らなかった。どんな食べ物が好きなのかも、動物が好きかどうかも、何ができるのかも。名字は江渡貝に鶴見の話や、他にも色々な話を聞かせてくれたが、自分のことは少しも話さなかった。
 名字はきっと、江渡貝の役目を教えてくれるため、地上に降ろされたのだろう。
 江渡貝は漸く、名字と友達になりたかったのだと気が付いた。

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