ポータウンの手前、17番道路にあるポー交番には何度も足を運んでいたが、一日の内に二度訪れたのは今日が初めてだった。開け放たれた戸口から、そっと中を伺う。ウラウラ島しまキング、クチナシはそこに居た。
 空いた右手でニャースを構ってやりながら、何かの書類と睨めっこしている。しかし何らかの気配を感じたのだろうか、ふと後ろを振り返り、此方を見る。「……名前?」

 どうした忘れ物か、と気だるげに尋ねたクチナシは、名前がもう一度大試練を受けさせて欲しいと口にすると、少しだけ驚いたような顔になった。
「それは構わないが……」
「いいの?」
 名前が思わず問い返すと、クチナシは「ねえちゃん、いったい俺のこと何だと思ってるの」と苦笑混じりに言った。

 雲ひとつ無い青空の下、いつもと同じように、道路を挟んで向かい合う。クチナシが繰り出したのは、先と同じ同じくヤミラミだった。きししっ、と、まるで笑っているようなその動きは可愛らしくも見えたが、同時に手も足も出なかった先程のバトルを嫌でも思い出してしまう。
 振りかぶってボールを投げる。「お、ニャースかい」
「珍しいなねえちゃん、ニャースはねえちゃんの切り札だろう? 先に出しちまっていいのかい」
「だって、ヤンチャムだとヤミラミ倒せないんだもん」
「そりゃあそうだ」
 クチナシは肩を揺らした。「それじゃ、始めようか。ウラウラ島の大試練ってやつを」


 ぱちんと聞こえた小さな音は、名前にとっては非常に聞き慣れたものだった。ねこだまし。ニャースの得意技だ。しかし今ねこだましを放ったのはニャースではなく、対峙したヤミラミだ。ニャースはふぎゃっと鳴き声を上げ、身を竦ませる。
「そのまま畳み掛けな、だましうち」
「避けてニャース、いやなおと! それからかみつく!」
 向かってきたヤミラミを持ち前の身軽さでかわしたニャースは、そのまま爪を立て、ヤミラミを真正面から切り裂いた。ぎいん、と、嫌な音が辺りに響く。ギャッと悲鳴を上げたヤミラミだったが、ニャースが噛み付いた時には、既に右手をニャースの胴体に叩き込んでいた。だましうちだ。
 ――あくタイプの技は、あくタイプのポケモンに効果が薄い。クチナシと戦う間に学んだことの一つだった。だましうちは強力な技ではあるが、あくタイプであるニャースにとってはそこまで脅威ではない。ニャースの方が素早く動けているし、このまま力技で押し通せると名前は踏んだ。
「ニャース、もう一回かみつく……!」
「ヤミラミ、かげうちだ」
 次の瞬間、ヤミラミの足元から影が伸びた。その影は一直線にニャースへと向かい、その背後で実体化する。ニャースが動き出すよりも先に、影は俊敏な動きでニャースに襲い掛かった。先制攻撃技だ。もしもかげうちがゴーストタイプの技でなかったならば、ニャースは今頃地面に伸びていたかもしれない。
 影に弾き飛ばされたニャースは、空中で一回転すると、そのまま綺麗に着地した。背中の毛を逆立てて威嚇するが、ヤミラミは笑うだけだった。しかしニャースが持っていたオボンの実を食べ始めると、ヤミラミはもちろん、クチナシも驚いたらしい。「持ち物を持っていやがったか……」
「私だって、ちょっとは成長するんですからね!」
 もっとも、オボンはアセロラがくれたものだったが。名前の言葉が面白かったのか、クチナシが小さく笑う。
 そう、名前だって、成長するのだ。クチナシと初めて戦った時は散々だった。技のタイミングも掴み切れていなかったし、あくタイプが何に弱いのかも解らなかった。しかし今ではポケモン達とより仲良くなっているし、あくタイプのポケモンがどういうポケモンなのかも何となく理解し始めていた。
 ――あくタイプは突破力があるわけではないが、相手を霍乱させる技を多く覚える。

 こぶし大のきのみをぺろりと食べ終えたニャースは、そのままヤミラミへと走り出した。クチナシは迎撃の指示を出したが、ヤミラミはニャースの攻撃に怯んでしまったのか、二度三度と噛み付かれると、そのままダウンしてしまった。
「……へえ。やるな、ねえちゃん」
 ヤミラミをボールに戻したクチナシは、そう言って新たなボールを放った。当然、中から出てくるのはペルシアンだ。何度も名前の前に立ち塞がった、シャムネコポケモン。
 悠々と歩くペルシアンに、心なしかニャースも力が入っているようだった。ペルシアンの特性はファーコートであって、きんちょうかんではない筈なのに。「いくよ、ニャース……!」
「――ニャース、メロメロ!」
「なっ――」


 ニャースが一際甲高い声を上げた。ご飯の時間だって、あんな声では鳴いたりはしないというのに。目一杯の甘えた声に、名前の方がむしろメロメロになってしまいそうだったが、名前以上に効いているのは当然ペルシアンだった。
 メロメロという技は、性別の違うポケモンに対しのみ効果を発揮するという特殊な技だ。攻撃を受けたポケモンは、文字通り相手にメロメロになってしまい、技を出しづらくなる――クチナシのペルシアンはメスであり、名前のニャースはオスだ。
「しっかりしろペルシアン、ちょうはつだ」
「ニャース、そのままいやなおと!」
 ペルシアンはトレーナーであるクチナシの声を聞き、びくりと身を震わせたが、その間にもちらちらとニャースの様子を伺っていた。アセロラにこの技を教えてもらった時は、同じ性別の相手や性別不明のポケモンには効かないなんてリスキーな技だと思ったが、その効果は絶大だった。
 確かに、メロメロはリスクの高い技だ。しかしそれは、相手がどんなポケモンを連れているか、知らない場合に限られる。名前がパートナーのニャースを切り札としているように、クチナシもまた、名前とバトルする時はいつでもあのペルシアンを連れていた。ファーコートのペルシアンを。
 メロメロで技が出せなくなる確率は五分五分なのだそうだ。しかし、ペルシアンはニャースを見て身を竦ませるばかりで、少しも動くことができない。もしかすると、ペルシアンがニャースの進化形であることも、少しは関係しているのかもしれなかった。
 いかに強力な技を覚えていようとも、動きを封じてしまえばそれまでだ。

 もっともそう何度も怯んではくれず、多少の反撃は受けてしまったものの、その時には既に三度のいやなおとが炸裂していた。トレーナーとしてもあまり聞きたくはない音だったが、今だけはこの音が名前にとって勝利への予兆のように感じられた。
 クチナシはころころと技構成を変える。その為、チャンスはこの一度きりだろう。次に戦う時は初手でちょうはつをされるだろうし、ひょっとするとメロメロをやり返されるかもしれない。クチナシがメロメロを指示するところは少し見てみたい気持ちもあったが、それ以上に名前は彼に勝ちたかった。「くそ――ペルシアン」
 名前はハッとした。クチナシが腕につけているリングが、にわかに光り始めていた。今までに何度か目にしたことのある、あの強く眩い光。クチナシは首から提げていたZクリスタルを引きちぎると、Zパワーリングへと重ね合わせた。
「ブラックホールイクリプス――!」
「ニャースっ……!」
 Zリングから放たれた光がペルシアンへ吸い寄せられていく。額の宝石がきらりと輝き、ペルシアンから禍々しいオーラが放たれる。それはペルシアンの遥か頭上で収束し、夥しい質量の空間が生まれた。視認できるほどの暗黒は徐々に膨らんでゆき、やがて太陽を覆い隠してしまった。

 薄暗い中、ブラックホールの名が冠されたその技は、辺りにあるものを手当たり次第に吸い込み始めた。当然、体重の軽いニャースなど一溜まりもない。名前のニャースは重力に吸い寄せられ、ブラックホールに呑み込まれる――筈だった。


 ぽふんと、間の抜ける音がした。ニャースだったものはブラックホールの中心部へ吸い込まれ、そして諸共に消えていった。「――みがわりか」
 みがわり。Z技が放たれる寸前、ニャースが使った技だった。
 Z技はトレーナーとそのポケモンの気力をフルに使う大技だ。少なくとも、このバトルではもう一度使われることはない筈だ。今の一撃でみがわりは壊れてしまったが、まだ見せていなかったみがわりで彼の意表がつけ、Z技を見事に防いだのだから上出来だろう。
 初めて目の当たりにしたクチナシのZ技に見惚れていた名前だったが、ハッと我に返った。「ニャース、かみつく!」
「ペルシアン、だましうちだ」
 ――一度メロメロを受けてしまうと、ポケモンを交代させるか、メンタルハーブなどの特別な道具を使用するまで効果は持続する。この日、名前は初めてクチナシとのバトルに勝つことができたのだった。



 参ったよ、と、クチナシは言った。「あそこでメロメロとはね」
「誰の入れ知恵かは知らないが、なかなか粋なことするじゃねえか、ねえちゃん」
「えへへ……」
 実際、メロメロのわざマシンを使ったのはアセロラのアドバイスのおかげなので、名前は何も言えなかった。というより、メロメロのわざマシンを貸してくれたのもアセロラだ。
 しかしみがわりに関して言えば、全て名前の判断だった。それまで、名前はわざマシンを貰っても、バッグの奥底に仕舞い込むだけだった。手に入れたわざマシンに対応できるポケモンが居なかったということもあるが、苦労して新しい技を覚えてこそのポケモンバトルという気がしていたのだ。しかしながら、クチナシが言ったように、わざマシンなどを使うことは必ずしも悪ではない。

 みがわりの事を思い付いた名前は、行きずりのトレーナーの何人かに声を掛け、何とかみがわりのわざマシンを譲ってもらったのだった。高かった。もっとも、そのみがわりが無ければ、ペルシアンのZ技は防げなかったのだから、終わりよければ全て良しだ。
「かっこよかったです、クチナシさんのZ技!」
「そうかい、ありがとうよ――そら、こいつがしまキングに勝った証だ」
 クチナシはそう言ってポケットに手を入れようとしたが、名前が「もう手に持ってるじゃないですか、Zクリスタル」と言うと、微かに眉をひそめた。
「こいつはおじさんの……まあ良いか。ほらよ」
 クチナシは、手にしていたアクZを名前に渡してくれた。先程まで、クチナシが首から提げていたアクZ。
「やったあ! おじさんつけて! つけてください!」
「はいはい」
 名前が顔を上に向け、首元が解るようにすると、クチナシは屈み、アクZをペンダントのように名前の首に提げてくれた。黒い鉱石が、胸元で日の光を受けきらきら輝いている。慣れない重みに、名前は嬉しくなった。「――それで?」
「……えっ?」
「どこにキスすりゃ良いんだ? ほっぺで良いのか?」
 名前は漸く、ごく至近距離にクチナシが居ることに気が付いた。赤い双眼がじいと名前を見下ろしている。

 ――私がクチナシさんの大試練クリアしたらキスしてね。
 名前はハッとなり、それから真っ赤になった。クチナシとのバトルに夢中で、自分が彼に何を求めたのか、すっかり忘れていたのだ。真面目な顔をして此方を見下ろすクチナシに、ますます顔が熱くなってしまう。
「それとも口にすれば良いのか?」
「ま、待って下さいクチナシさん……! わ、私まだ、心の準備が――」
「なんだ? ねえちゃんが言い出したことだろ?」
 思わず「お、おまわりさん……!」と口走ってたものの、「俺がお巡りさんだよ」と呆れられてしまった。しかしその顔に浮かぶ微かな笑みに、彼があくタイプ使いのトレーナーだったことを思い出す。クチナシは、確かに楽しんでいる。
 そうこうしている間に、顎を指で掬われた。「ま、こっちじゃキスなんて、挨拶みたいなもんだよな」

 近付いてくるクチナシに、名前は思わずぎゅっと目を瞑る。ふっと、すぐ向こうでクチナシが笑ったのが解った。おそるおそる目を開けると、クチナシの赤い瞳と目が合う――彼の眼は、すぐ向こうに広がる花園の、その花の色にそっくりだ。
 額に何か暖かいものが置かれ、それから柔らかなものがそっと触れる。「ク、クチナシさ……いま……」
「……あのなあ、警官の俺が、未成年のお前さんにキスなんざ出来るわけないだろ」
 呆れたようにそう言ったクチナシだったが、名前の顔が赤らんだままなのを見てだろう、ふっと笑みを浮かべた。約束は約束だからな、と。

 クチナシは既に名前から離れていたが、それでも名前の気持ちは収まらなかった。どきどきと脈打っている心臓は、今にも破裂してしまいそうだ。
「ず、ずるい……」
「あくタイプ使いに狡いも何もあるか」クチナシが言った。「けど、ねえちゃんがもしまだ足りないってんなら、そうだな、お前さんが島巡りをこなした時になら、これの続きをしてやるよ」
「キスでも、何でも」
 にやりと笑うクチナシを前に、名前ははくはくと口を動かしていたが、やがて「約束ですからね」と、消え入るような声で言った。この日、名前は故郷であるウラウラ島を後にした。黒く輝く宝石を、その胸に抱いて。

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