ペルセポネの誘い

 この家の中で名前ができることといったら、落ち葉を掃いたり、庭の雑草を抜いたりとそれくらいだった。人が居ないと家がだめになるから、と鶴見は言っていたが、この家には住み込みの下女が居た為、その心配は杞憂というものだろう。
 ほう、と息を吐き出すと、白い靄となってやがて消えていく。
 名前は小さく溜息をついた。外出は控えるよう言われている上、テレビも無い、ゲームも無い。そんな場所で、これからの冬をどう乗り切ればいいのだろう。
 確かに北海道は一年の内の大半が冬だと聞いていたが、こんなにも早く冬が訪れるものなのだろうか。この調子では、明日にも雪が降り始めるに違いない――名前がこの時代に来てから、既に半年余りが過ぎていた。

 平成が終わったと思ったら明治に戻っていた。そんな馬鹿な話がある筈もなかったが、名前は五月一日の朝、気付けば山中で一人寒さに震えていた。当然パニックに陥った名前だったが、そこに鶴見達の一行が通り掛ったのは、一生に一度の幸運と言っても差し支えないだろう。
 軍服姿の男達は最初こそ剣呑な雰囲気だったが――セーラー服を着ている女学生など、ありえて良い筈が無いからだ――名前が遠い場所から来たと知れると、ごく親切にしてくれた。小隊長の鶴見など、こうして住む場所を提供してくれたほどだ。
 本来であれば、そんな旨い話がある筈がないと疑ってかかるべきなのだろう。実際名前は鶴見の事を信用しているわけではないし、鶴見とてそれは同じ筈だ。未来から来たなどという妄言を信じるより、他国のスパイだと認める方がずっと容易い。しかし名前は鶴見に縋るより仕方が無かったし、鶴見にとって名前の存在は何か価値があるものだったのだろう。暫く私の家で暮らすと良いと笑ってみせた鶴見に、名前は黙って頷いた。心底有り難いという表情になっていますようにと、そう願いながら。

 抜いた草を片付けながら、ふうと息をついた時だった。地面に影が差した。振り返った顔が見知った顔がにこにこと此方を見下ろしている。
「……宇佐美さん」
「こんにちは、名前さん」
 久しぶり、と笑う宇佐美は、手にしていた大きめの包みを名前に渡した。慌てて受け取ったものの、ずっしりと重くて驚愕してしまう。
「あ、ありがとうございます。けどこれ……何ですか?」
「ん? 鴨」
「かも」


 陸軍第七師団宇佐美上等兵が名前への手土産にと持ってきたのは、果たして鴨だった。血抜き処理をしただけのそれに名前は戦々恐々としていたのだが、宇佐美は厨に上がり込むとすぐにそれを捌き、簡単に鍋を拵えてしまった。鴨鍋だ。名前としては宇佐美が料理ができたこと自体驚いてしまったのだが、「まあ戦争で色々やったからねえ」と笑われてしまった。気まずい。
「――……おいしい!」
「そう?」
「おいしいです宇佐美さん……!」
 平成で食べた鶏と違い歯ごたえがあり、鴨肉の味なのだろうかあまり食べ慣れない味だったが、肉自体が久しぶりなこともあってとても美味しかった。鴨が葱を背負ってくるとは言うが、まさか葱と一緒に煮ただけの鴨鍋が、こんなに美味しいものだったなんて……!
 宇佐美が「どんどん食べなよ」と笑って言ってくることも手伝って、名前は少し、また少しとおかわりをしてしまった。女性がこうも食い意地を張っているのは、この時代では平成の時よりも更にはしたないだろうか。それでも、美味しいのだから仕方ない。名前が恐る恐る宇佐美の方を伺うも、彼はにこにこと笑っているだけだった。

 名前が鶴見に言われていることはただ一つ。尋ねてくる彼の部下に、言われた通りのものを渡すこと。
 尋ねてきた者から書状を受け取り、また別の日尋ねてきた別の者へそれを渡す。それの繰り返しだ。時折、郵便局に受け取りに行くこともあったが、平成ほど伝達機関が発達していないせいか、もしくは鶴見が用心深いせいか、大半は家で待っていれば事は済んだ。
 書状を渡すだけなら別に名前でなくても良い筈だが、鶴見は名前にそれを任せた。何てことはない、名前は絶対に鶴見を裏切れないからだ。帰る場所の無い名前にとって、鶴見だけが頼みの綱だった。鶴見に見放されれば、名前はすぐにこの世界からさよならしてしまうだろう。だから名前は書状を受け取っても絶対に中を改めなかったし、どんな時でも懐に仕舞っていた。
 ――伝書鳩以下。名前は時折、自分をそう思うことがあった。さもなくば、電池の切れたスマホ以下だ。
 名前に現実を突きつけたのは、平成では有り得ない筈の軍服でも、刺すような寒さでも、ちらほらと耳にする熊害の噂でもなく、そのスマートフォンだった。名前のスマホは、今や常に胸元に仕舞われている。一切の電波も拾わず、暦も狂い、ただ保存された画像や文を見るだけの金属となったそれは、名前に一番の絶望を突きつけてくれた。明治に来た時の服は汚れてぼろぼろになってしまったので――どうやら廃棄されたらしい――正真正銘、この電池の切れたスマートフォンだけが名前の存在を証明するものだった。

 宇佐美が書状に目を通している間、名前は彼が土産として持ってきてくれた団子を頬張っていた。久しぶりの甘味に、唾液腺が弾けそうだ。
 この家で暮らすようになってから出来た知り合いというのは少ない。そんな中でも、宇佐美はよく足を運んでくれていた。両頬にある特徴的な黒子も相俟って、彼の事はすぐに覚えた。常ににこにこと笑って接してくれるのも、戦争やら、軍人やらに慣れていない名前にとってはありがたい。何も、毎回彼が持ってくる手土産を楽しみにしているわけじゃない。
「名前さんは、本当に美味しそうに食べるよねえ」
 いつの間にか宇佐美が此方の方を眺めていた。どうやら鶴見からの指令を読み終わったらしい。いくつかあった書類の内の一つが、彼宛のものだったのだろう。名前は見られていたことに何となく恥ずかしくなって、「す、すみません……」と口篭った。「いや、いいんだよ。俺もその方が嬉しいしね。ああそうだ――」
「名前さん、ヨモツヘグイって知ってる?」


「……ヨモ? 何ですか?」
 聞き覚えの無い単語に、一瞬頭の処理が追い付かなかった。ヨモツヘグイ。どういう字を書くのかすらさっぱり解らなかった。それとも、日本語でなくアイヌ語だろうか。
 平成では殆ど話す人が居ないと聞いていたアイヌ語だったが、この時代ではアイヌの人々がすぐ身近に生活していた。聞き慣れない言葉を耳にすることもしばしばあり、今回もそれではないかと思ったのだ。
「黄泉竈食ひ。それじゃ、伊邪那岐命と伊邪那美命は?」
「あ、それは解ります! えーっと、神様ですよね、確か昔のやつの……」
「詳しく書かれてるのは古事記だね」
 ――そうだ、古事記だ。確か、学校で少し触れた気がする。内容を詳しく習ったわけではないが、イザナギとイザナミという言葉には覚えがあった。
「死んでしまった伊邪那美命を追って、伊邪那岐命は黄泉の国へ渡るんだ。連れ戻しにいくんだよ、ロマンチックだよねえ。けど、伊邪那美命は帰れないと言う。それは彼女が、向こうの世界――黄泉の国の食べ物を口にしてしまったからだ」
「黄泉の国の……」
「ところでさあ、名前さんって」
 いっつも美味しそうに食べるよねえ――。


 全身の血の気が失せていた。家の中に居る筈なのに、身体の芯から凍ったような心地だった。未だ口の中に微かに残る団子の味が、いつしか泥水のような汚らしいものへと変わっていた。向かいに座っている男が、突然何か得体の知れないもののように思えて仕方がなかった。
 宇佐美は依然としてにこにこと笑っている。それなのに、少しも笑っていないようにも見える。
 ――そんな、そんな馬鹿な。
 黄泉竈食ひ。まさか名前が今尚元の場所に帰れていないのは、こちらで食べ物を食べてしまったからなのだろうか? それじゃ、いったい、私は――。
「ああ、ごめんごめん」
 名前がぶるぶると震えているのを見てとったのだろう、宇佐美は少しだけ申し訳無さそうな声で言った。そのしおらしい様子に、少しだけ名前もホッとする。彼は冗談で言っただけなのだ、きっと名前を笑わせようと――。「もう名前さんは此処に来て随分経つじゃないか」

 ぱきりと、胸のところで何かが壊れる音がした。

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