通り雨だと思っていたのに、降り始めた雨は時間が経つにつれて強くなる一方だった。ぬかるんだ地面に足を取られた、名前のニャース。経験値の差だろう、クチナシのニャースはその一瞬の隙を見逃さなかった。
 渾身の一撃に、名前のニャースはあっけなく沈む。
 その瞬間、クチナシのニャースの体がにわかに光り出した。「っ――ま、待てニャース!」

 初めて聞いたクチナシの焦る声――その意味を考えようとしたのも束の間、名前は一瞬にしてその光景に見入ってしまった。体の素粒子が組み変わっていく。体躯は一回り大きくなり、四肢がすらっと長くなった。先の丸まった特徴的な尾はいっそう伸び、髭も前より長くなった。額の小判は消え失せ、代わりに青い宝石がきらりと輝いた。クチナシのニャース――クチナシのペルシアンは、一際大きく鳴き声を上げた。
「遅かったか……」
「すごい……」名前が言った。「クチナシさんのニャース、進化したの?」
「ん? ああ、まあな」
 進化したというか、進化させてしまったというか。歯切れの悪い言い方をするクチナシ。「何だ、ねえちゃんは見たこと無かったのか。ポケモンが進化するところ」
「うん」
「……そりゃ、悪いことしちゃったな」
 何故クチナシが申し訳なさそうな素振りを見せるのか、名前にはさっぱり解らなかった。ポケモンが進化するところなんて滅多に見られるものじゃないし、いつか自分もニャースを進化させられたらとドキドキしたのに。
 名前がニャースをボールに戻した時、一際大きな雷鳴が轟いた。「ねえちゃん、どうする」
「まだポケモンは残ってたろう。このまま続けるかい」
 確かに、名前の手持ちポケモンはまだ残っていた。しかし、コイキング一匹で、クチナシのペルシアンを二匹も倒せるとは思えない。まして、コイキングははねるしか覚えていないのだ。はねるが攻撃技ではない事は、名前が一番よく知っていた。
 名前が首を横に振ると、クチナシは「ま、それがいいわな」と静かに言ったのだった。


 風邪を引くといけないから――クチナシの言葉に押されて、結局シャワーまで借りてしまった。遠慮なく借りた服に袖を通し(縞模様のTシャツは、彼の私服なのだろうか。クチナシが着ているところはあまり想像できない)、交番に戻ると、クチナシがニャースをあやしているところだった。交番のニャースではなく、名前のニャースだ。
「一応、体力は回復させておいたけど、万全じゃあないからよ、早めにポケモンセンターに寄るんだよ」
「ありがとう、クチナシさん」
 名前がずぶ濡れになったのと同じように、クチナシも全身びしょ濡れになったのだろう、いつもの制服とは違い、ずいぶんとラフな格好をしていた。濃紺のTシャツに、カーキ色のズボン。もっとも、しまキングだからなのか何なのか、彼は普段から制服を着崩していたが。名前としては、見慣れない格好にドギマギしていたのだが、「ほら、服貸しな」と手を差し出してくるクチナシに、慌てて自分の服を差し出す。警察の制服の横に自分のパーカーが並んで干されているのは、些か妙な光景だった。

 貸して貰ったドライヤーで髪を乾かしていると、いつの間にか戻って来ていたクチナシがマグカップを差し出していた。「雨が上がるまでまだ暫くかかるだろうしよ、ゆっくりしてきな」
 珈琲はあんまり好きじゃないんだけどなあと思いながら受け取った名前だったが、予想に反した甘い匂いに目を見開く。
「クチナシさん、これココアですか……!」
「そう驚くことでもないだろ。おじさんにも色々あるんだよ」
「クチナシおじさんがココア……」
 まさか普段から飲んでいるのだろうか――特に嫌悪感を抱かなかったどころか、むしろ甘いものが好きなクチナシは可愛いのではないか、と、そんなことを思う始末だ。マグに口を付けると、やはり甘やかな味が口の中に広がる。
「今日は悪かったよ」クチナシが言った。椅子に座った彼は、名前と同じ無地のカップを手にしていた。
「本当は、こいつを――」クチナシはそう言って、傍らに控えるペルシアンの頭を撫でた。「――進化させるつもりじゃなかったんだ。ねえちゃんには、ペルシアン二体を相手するのはまだ荷が重過ぎるからな」
「そうだ、クチナシさんのニャース、20レベルでしたよね。私のニャースも、20レベルになったら進化しますかね」
「いや、あくタイプのニャースの進化に、レベルは関係ないよ」
「えっ、そうなんですか」
「ポケモンが進化する時にはいくつか条件があって、ニャースの場合、トレーナーに充分懐いてることが条件なんだよ」
「トレーナーに懐く……」
 すり寄ってきたニャースを撫でてやりながら、名前は小さく呟いた。
 確かに、ポケモンの進化にいくつか種類があることは知っていた。しかし、何となくレベルを上げればいいと思っていたので、少しだけショックだ。自分のトレーナーとしての甘さにも、まだニャースが充分懐いてくれていないという事にも。
 もしかすると、クチナシとのバトルに負けまくってるから、あまり懐いてくれていないのかも。
「何だい、ねえちゃんも進化させたいの」
「もちろんです! それにポケモンって、進化させた方が強くなるんですよね?」
「ま、大体はね」
「だったら尚更です! 私、早くクチナシさんに勝ちたいんですから!」
 だって、ペルシアンならクチナシさんとお揃いだし――という言葉は飲み込む。
 どうしたら勝てますかね、と意気込む名前に、「俺に聞くのか」とクチナシは静かに笑った。
「……あくタイプってのは、あんまり突破力がある方じゃない。他のタイプと比べるとどうしてもね。変化技を使うとか……技マシンで色んな技を覚えさせるって手もあるだろうね」
 そう言って、クチナシはカップを傾けた。彼は何を飲んでいるのだろう。私と同じココア? それともコーヒー?

 交番に通い詰める名前に、いつの間にかニャース達も慣れてしまったらしかった。先日よりも更に一匹増えていたが、ニャースは名前を警戒するどころか、名前のことを全自動マッサージ器とでも思っているのだろう、毛づくろいを要求してくる。交番のニャースの背を撫ぜてやりながら、ふと名前は違和感に気が付いた。
「こっちのニャース、私のニャースよりふかふかしてる?」
「ファーコートっていうんだ。特性が違うんだよ。ねえちゃんのはものひろい」
「へえー……」
「特性ファーコートは、物理攻撃に強くなるんだ」
「そうなんですか」名前はふかふかしているニャースを撫でてやりながら呟いた。「……それって、クチナシさんのペルシアンも?」
「ん?」
「おじさんのペルシアンもファーコートなの?」
「そうそう」
 察しが良いね、と、クチナシは言った。


 クチナシと、こうしてゆっくり話すのは珍しいことだった。むしろ、初めてかもしれない。普段、名前は大試練の後すぐに帰ってしまうからだ。名前としてはいつまでも彼の側に居たいのだが、警官であるクチナシを、いつまでも煩わせてしまうわけにはいかない。クチナシはあまり口数が多い方ではないので尚更珍しかった。
 もしかすると、名前がこうして交番に居ることが居た堪れないように、彼も名前が居ることに落ち着かないのかもしれない。
「――俺はよ。本当の事を言うと、正直、あんまり乗り気じゃなかったんだ」
 唐突な言葉に、名前は顔を上げた。
「しまキングってのは、要するにジムリーダーみたいなもんだろ? ジムリーダーってのは、誰かを導くのが役目だ。俺は誰かに道を示してやれるほどご立派な人間じゃないし、それは今も変わらない。こんな事を言うと怒られそうだが、カプさんが何で俺を選んだのか、正直今でも疑問に思ってるんだ。けどよ」
 クチナシは、まっすぐ名前を見据えていた。「あの日、ねえちゃんが来た」
「お前さんが俺のところに来て、島巡りに出た。それからお前さんは、会う度に強くなる。俺がやったニャースも一緒に。ああこういう事なんだ、って、そう思ったよ。だから……何て言うのかな、俺は感謝してるんだよ、お前さんに。俺をしまキングにしてくれたのはお前さんなんだよ、名前」


 もう雨も上がったろ、さっさとそれ飲んで帰んな。クチナシはそう言葉を結んだ。彼の言うように、雨はいつしか止んでいた。あれだけの土砂降りだったのに、今や見る影もない。
「クチナシさん」
「ん?」
「ならキス――」
「それとこれとは話が別だろ。さっさと帰んな」

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