私がクチナシさんの大試練クリアしたらキスしてね――そう口走った名前に、クチナシが「は?」と間抜け面を晒したのは、ほんの数ヶ月前の話だった。今思えば、あれがクチナシが見せた最初で最後の素の表情だったのだろう。しかし、名前は本気だった。


 ウラウラ島は、数年前までしまキングが不在の状態だった。クチナシの前任である前しまキングが、突如として姿を消してしまったからだ。しまキングの下で生活していた者も、親しい友人も、ウラウラ島で生活している島民も、誰もしまキングの行方を知らなかった。紛れもない失踪であり、皆、カプの祟りだと噂をしていた。
 そんな中で、名前は11歳の誕生日を迎えた。11歳になれば、アローラの風習である島巡りに挑戦することができるようになる。本当だったら、名前も11歳になったその日に島巡りに出る筈だったのだ。
 昔はキャプテンを務めていたのだという名前の父は事あるたびにその事を持ち出し、次第に名前も、自分もキャプテンになるものと思うようになっていた。しかし、慕っていたしまキングが居なくなり、名前は不貞腐れた――かなり不貞腐れた。意地を張って、島巡りなんてしないと言い出すほどに。
 前しまキングは引退ではなく、姿をくらました。当然、後継のしまキング、しまクイーンなど決まっていない。カプ・ブルルからは何の音沙汰も無く、ウラウラの大試練が受けられず、島巡りを中断せざるを得ないトレーナーが続出した。暫くすると他の島のしまキングやしまクイーンが交代で大試練の代理を務めてくれたが、それでも、ウラウラ島で育った名前としては何となく気が進まず、結局名前が島巡りの旅に出たのは数年経ってからだった。

 その日、名前は一人ポータウンを目指していた。新しくポー交番に赴任した警官が、ウラウラのしまキングに選ばれたという話を聞いたからだ。どうやら島在住でない者から選ばれるのはかなり珍しい事のようで、ウラウラ島どころか、アローラ中でちょっとした騒ぎになっていた。
 その名の通り赤い花の咲き乱れるウラウラの花園を抜け、ポータウンを目指す。壁に覆われた夜の町は、常と同じように静寂を保っていた。
 ――新しいしまキングがどんな奴か見てやろう。そして、しまキングに似合わない奴だったら、やっぱり島巡りに出るのはやめにしよう。
 憧れだったしまキングの大試練を達成して、それからウラウラ島を出たかった。しかしながら、名前が島巡りに出たいと思っているのは本当で、あの日も新しいしまキングが決まったと聞かなければ、一度会いに行ってみればと言われなければ、今でも意地を張って島巡りに行っていなかったに違いなかった。
 辿り着いた交番で、名前は入り口からそっと中を覗いた。名前に背を向けるようにして、一人の男が座っていた。しかし、名前の目を引いたのは、交番内に居る数匹のニャースだった。

 最初、名前は見間違いだと思った。交番に来たのは初めてではなかったが、ニャースが居る交番を見たのは初めてだったのだ。しかし何度見てもニャースはニャースだったし、一匹だけでなく二、三匹のニャースが交番内に点在していた。しかも、奥に見えるソファーにはペルシアンが陣取っている。あのグレーの毛並みに、額に光る青い結晶体は、まず間違いなくペルシアンだろう。
 しまキングを見に来たことも忘れ、ポー交番のニャース達に呆気にとられていた名前だったが、その内の一匹がにゃあんと鳴き声を上げたことで我に返った。どうやら気付かれていたらしい。慌てて身を隠そうとした名前だったが、ペルシアンと目が合い、何となく動けなくなってしまった。ペルシアンの視線を追ってだろう、男が後ろを振り返る。
 くたびれた男だと思った。背中は丸まっているし、髪は白髪の方が目立つ。目の周りにはうっすら隈があり、新品の筈の制服ですら既に皺ができていた。しかしながら、彼の赤い目だけは、どことなく怜悧な印象を受けた。
 男は微かに目を細め、名前に声を掛ける。「ねえちゃんどうしたの、迷子?」


 新しいしまキングを見に来たのだと名前が怒りながら言うと、警官は――新しいしまキングは頭を掻いた。「そうは言われてもね……」
「おじさん、この間しまキング? とかいうのになったばかりでよ。何をすれば良いのかもよく解らないんだよ。何、ねえちゃん、島巡りに出るの?」
「い、行くって決めてないし……!」
「そうなの?」
 名前の返事を聞いても、男は気にした素振りも無かった――アローラの人間であれば、島巡りに出ないという女の子は奇異な目で見るだろう。どうやら、新しいしまキングが他の地方から来たというのは本当らしい。男は立ち上がり、デスク脇の棚を漁り始めた。「これと……あとこれもか」

 ん、と何かを差し出され、名前は思わず受け取ってしまう。島巡りの証と、Zパワーリングだ。「だから……!」
「何だ? それで足りてるよな?」
 どうやら、彼の言った何をすれば良いのかもよく解らないという言葉に嘘はないらしく、結局、名前は証とリングを受け取ってしまった。


 名前はそれまで、島巡りになど出るものかと思っていた。少なくとも、表面上はそういう振りをしていた。一度言い出したことを後から変えるのは格好悪い気がしたし、家族や友達が皆島巡りに出るよう説得してくるので、余計に意地になっていた。しかし、名前は受け取ってしまった。
 ――私が頼んだわけじゃないし、この人が勝手に渡してきたんだから。
 名前が自分から言ったことを曲げたわけじゃないし、しまキングがじきじきに頼んできたんだから、これはきっとノーカウントに違いない。名前は島巡りに“行かなければならなくなってしまった”のだ。名前は少しも態度を変えないよう気を付けながら、「仕方ないから受け取ってあげますよ」と、至極何でもないことのように言った。
「そいつはありがとよ」
「ねえ、おじさんはポケモンはくれないんですか?」
「ポケモン?」
「前のしまキングは、ポケモンくれたって聞いたから」
 島巡りの証を鞄に結び付けながら、名前が言った。
 島巡りは元来、島巡りの証さえ持っていれば成立するものだ。親のものを引き継ぐ子供も居たし、町の有識者から貰う子供も居た。しかしながら、ウラウラ島の前しまキングには人望があり、彼の元から島巡りを始める者が多かった。しまキングはそんな子供達の為、ポケモンを用意してくれたのだ。生涯のパートナーとなりえるポケモンを。
 新しくしまキングになった男は、「急にそんな事言われてもね……」と些か困ったように言ったが(どうやら、あまり表情が豊かな方ではないらしい)、ふと思い付いたように立ち上がった。それから名前に背を向け、のそのそと歩き出す。名前は男が革靴ではなく、サンダルを履いていることに気付いた。

 ん、と、差し出されたのは一匹のニャース。「……おじさん?」
 首根っこを持たれているニャースが可哀想に見えて思わず受け取ってしまったが、男が何を言いたいのかよく解らなかった。まさか、本気で……? しかし、腕に感じる温かさや、自分を見上げてにゃあと鳴くニャースに、もはや何も言えなくなってしまった。
 暫くしてから「ありがとう」と名前が小さく言うと、しまキングは「大事にしてやんな」と肩を揺らした。「けど、おじさん、誰かにポケモンやったのなんて生まれて初めてだよ」


 ――名前は、新しいしまキングがしょうもない人間だったら、そのまま帰ろうと思っていた。島巡りの証だって、付き返そうと本気で思っていた。しかし、もうどうでもよくなってしまった。腕の中のニャースが、ひどく愛おしく思えたのと同じように。
「ねえおじさん」名前がそう声を掛けると、しまキングは「ん?」と問い返した。「私、名前。ね、おじさんの名前は?」
「俺はクチナシ」
「ねえ、クチナシさん。もし私が、クチナシさんの大試練をクリアしたら――」

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