みたいがやまい

「あじない……」
 名前が小さく呟くと、クチナシは「ま、そんだけ鼻声ならな」と些か呆れた調子で言った。恐らく、いつものように肩をすくめているに違いない。しかしながら今の名前にはクチナシを見る余裕が無かった。名前は、再びずびびと鼻をすする。

 初めて食べたオカユサンは、思っていたものではなかった。真っ白いつぶつぶ、ほかほかと立ち昇る湯気。匂いはまったくわからなかったが、何となくパン粥のようなものではないかと思ったのだ。しかし、名前がひどく風邪を拗らせているからというのもあるのだろうが、少しも味がしなかった。ただただ熱い、それだけだ。――いや、段々と、ほんのり甘くなってきたような。気が、する。

 始まりはマンタインだった。ウラウラ島で暮らす名前は、あまり島から出たことがなかった。島巡りをしていた時は、水道を渡ったことこそあったが、結局、その島巡り自体途中でやめてしまった。小さい頃に一、二度他の島に行ったことはある筈だが、そのどちらもが遊覧船に乗ってのことだ。つまり、名前は今までに、一度もマンタインサーフをしたことがなかった。
 ビーチの様子を遠目から眺めていただけだったのだが、着流しのサーファー(しかも、これがかなりのイケメンだった)に唆され、名前は意気揚々とサーフィンに挑戦した。しかしながら隣島に遊びに行くどころか、少し進んでは海に落ちてを繰り返し、結局風邪を引いてしまったのだった。

 電話で――イッシュで流行っているようなテレビ電話ではなく、音声だけの旧式だったのに――それがばれたのは、正直言って迂闊だった。そりゃ、今の名前の顔を直に見れば誰だって風邪を引いていると解るだろう。見るからに熱っぽいし、鼻のかみすぎで鼻の下が赤くなっているし。ふわふわと熱にうかされている名前は、自分がどれくらいの風邪具合なのかいまいち解っていなかった。おそらく、電話越しでも解るほどの風邪声だったのだろう。
 見舞いに行く、というクチナシの申し出を断れなかったのは、一人暮らしの身で心細かったから。ただそれだけだ。もしかすると、手持ちニャースの面倒を見る人が居なかったからというのも、もしかすると少しはあるかもしれない。風邪の時は気が滅入る。他に理由がある筈もなかったし、戸口に現れたクチナシがこんなに頼もしく見えたことは今まで一度も無かった。
「――クチナシさん、料理できるんだね」
「レトルトだよ」クチナシがにべもなく言った。「そりゃあ、ま、少しはできるけどね。名前のねえちゃんは俺のことなんだと思ってるの」
 ふふふ、と名前は小さく笑った。それからまた鼻水をすする。
「ありがとー、おいしかった、オカユサン」
「そりゃ良かった」
 体の中がぽかぽかと暖かい。名前がリラックスしたのを察知したのだろう、未だクチナシの膝の上に陣取っているニャースがにゃあんと鳴いた。どことなく心配そうな声色だ。ニャースは身軽に名前のベッドに飛び移ると、いつものように撫でるよう急かした。名前は少しだけ彼の頭を撫でる。やわらかい。

 いつの間にかオカユサンの入っていた器が消えていて、片付けてくれたクチナシが戻ってきていた。ありがとーと再び名前が言うと、クチナシは「いいよ」と面倒くさそうに口にした。「さっさと寝なよ。シャワーもやめときな」
「ん。じゃあおじさん帰るから。きちんと寝るんだよ」
「えー」
「えーて何」
「やだやだ、おじさんそこに居てよ。わたしが寝るまで」
 一瞬の間。「――ハァ、わかったよ」
 クチナシが再びベッド脇のスツールに腰掛けたのが解った。まどろみの中、優しい「おやすみ」が聞こえたような、そんな気がした。


 自分が寝るまでそこに居て欲しい――そんな事を言った割に、名前はものの数分としない内に眠りについた。すうすうと、寝息が聞こえる。自分の主人が構ってくれないことを理解したのだろう、名前の元に居たニャースは少しだけ名前の周りをうろうろした後、再びクチナシの膝の上に飛び乗った。それから毛づくろいを再開するよう催促する。クチナシは少しばかり眉を上げたが、結局従うことにした。かりかりと顎を掻いてやる。気を良くしたのだろう、次は背中と急かすニャースに、クチナシは内心で溜息を吐いた。
 こいつ、おやの俺が育ててやった恩も忘れて、いっそうふてぶてしくなりやがって。
 しかしながら、島巡りに旅立つ名前に持たせてやった時点では野生のニャースだったのだから、クチナシは正確にはおやではないわけで。ニャースの背を撫でてやりながら、どいつもこいつも警戒心というものが無いのだろうかと些か心配になってしまった。

 クチナシが名前が風邪を引いていることを知ったのは、まったくの偶然だった。マリエ庭園の茶屋で限定メニューが出たと教えてもらい、若い彼女なら喜ぶだろうと思って誘ってみたのだ。しかし、結果はどうだ。名前は風邪を――しかもかなり――こじらせており、ニャースの面倒を見るのもままならない状態だった。親元を離れ、一人暮らしをしている子供が風邪を引いているというのは些か具合が悪かったし、知ってしまったからには放っておくわけにもいかなかった。
 モーテルの管理人は、ウラウラ島しまキングの顔を見ると、何の躊躇いもなく名前の部屋の鍵を貸してくれた。恐らく彼も、名前のことを気にしていたのだろう。ありがとうよと礼を言いはしたものの、少しだけ心配になった。セキュリティーやら、個人情報やら。

 ぐっすりと眠っている名前を眺めながら、クチナシはぼんやり考えていた。名前のニャースがクチナシに気を許すのも、モーテルの管理人が気にしないのも当然だ。クチナシは真っ当な大人で、アローラ警察の警官で、そしてウラウラ島のしまキングだ。名前とは親子ほどの歳の差があり、“何か”が起こる筈もなかったのだ。
「……参っちゃうなあ」
 ぽつりと零れ出た独り言に、ニャースが少しだけ顔を上げる。どこか眠そうで、それでいてどことなく満足そうだ。クチナシはふっと笑い、「ほら、おまえさんも寝ちまいな」と手を退けた。ニャースは小さくにゃあと鳴き、それから名前のベッドに静かに飛び乗った。そして丸くなり、やがては寝息を立て始める。


 ニャースと一緒に眠りについている名前は、まるきり子供だった。実際子供なのだから仕方がないが、こんな子供に自分が普段何を思っているのか――考えるだけで反吐が出そうだった。
 彼女がクチナシの元から島巡りを始めた最初の子供だったからなのか、それともずぶ濡れになった名前を交番に入れてやったからなのか。今となっては解らなかった。しかし止めようと思ってやめられるものではないし、実際にはクチナシは何をしているわけでもない。ただ時折、こうしてじっと眺めるだけだ。

 島巡りは、ある種の通過儀礼なのだという。アローラの住人として、ちゃんとした大人になる為の。
 クチナシはアローラ出身ではなかったが、しまキングとして此処で生活を続けていく内に、段々とそういった空気を感じ取っていた。島巡りを終え、島巡りチャンピオンとして名を連ねた者は持て囃され、途中でリタイヤしたり、挑まなかった者は指を指される。
 島巡りを終えられなかった名前は――ウラウラ島から出ることもなく島巡りを終えた名前は、大人になれない子供という事なのだろうか。
 勿論、そうではない事は解っていた。あと数年もすれば、名前はきっと大人になる。胸は膨らみ、腹回りはくびれ、柔らかな肉がついていく。しかしながら、ずっと子供のままで居れば良いのにと、そんな馬鹿げたことを思わないではいられなかった。クチナシが今名前の隣に座っていられるのは、彼女が子供だからだ。


 名前のあどけない寝顔を見るに、恐らく気持ち良く寝られているのだろう。それだけでも、クチナシが此処へ来た甲斐はあったという事だ。
「早く風邪治しなよ、名前」クチナシは誰に告げるでもなくそう呟いて、そっと部屋を後にした。

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