ある日の昼下がり

 ビーチエリアでの一件から、ゆうに二月余りが経った。どうやらハラの言った「グズマを一人前のトレーナーにする」という言葉は本気だったようで、グズマは未だリリィタウンに居続けている。ハラの内弟子達はグズマの評判を聞いていないのか、それともスカル団の件には触れないよう釘を刺されているのか、いずれにせよ、ハラの家での生活はさほど居心地の悪いものではなかった。
 しかしながら、グズマには一つだけ、現在進行形で困っていることがあった。「グズマー」


 グズマは、思わず顔が引き攣りそうになるのを、渾身の力で堪えなければならなかった。元より気が長い方ではない。
 返事が無いことを訝ってだろう、小さな女の子――名前は、再度グズマの名前を口にした。
「……何だよ」
 グズマは渋々と返事をしたが、彼女は一向に気にしなかった。むしろ、ぱあっと顔を輝かせると、グズマに駆け寄り、「これ! ごほんよんで!」と手にしていた一冊の絵本を差し出した。表紙に描かれているのはナマコブシとピカチュウ、それからヤドンだ。
「――ハァ。わーったよ。けど一回だけだからな」
「やったあ!」
「あと、オレ様の事はグズマさんだっつってんだろうがよ」
 名前は「はあい」と素直に返事をしたが、次にグズマの名を呼ぶ時には忘れているに違いない。
 昼下がり。ハラは島民の求めに応じ、家を空けている。確かにグズマは時間を持て余していたし、歳の割には聞き分けの良い名前は少し相手をしてやれば満足するので、絵本を読み聞かせてやるくらいなら構わなかった。もっとも、最初に本を読むに至るまでには相当の葛藤があったのだが。
 グズマはベッドに腰掛けたままだったが、身体の小さな名前にはそのベッドに上るのすら困難らしい。よじ登ろうと奮闘している名前をそのまま抱え上げ、仕方なく隣に座らせる。これで文句は無いだろうと鼻を鳴らしてみせれば、名前はひどく不服そうな顔でグズマを見上げていた。
「や。お膝がいい」名前が言った。「ハウくんはお膝でご本よんでくれるもん」
「……チッ、解ったよ」
「えへへ」
 グズマが再度名前を持ち上げ、抱き抱えるように膝の上に座らせてやると、名前は嬉しそうに笑い声をもらした。
 メレメレ島しまキングの内弟子としての生活は、グズマにとって存外居心地の良いものだった。しかしながら、しまキングの孫娘――名前の存在だけが、グズマの頭をひどく悩ませていた。

 名前はしまキングの末の孫だ。グズマがメレメレを出る前にはまだ生まれていなかったので、恐らくまだ五歳にもなっていないだろう。ハラに二度目の弟子入りした際、グズマは初めて名前と顔を合わせた。
 しまキングは勿論、内弟子や、リリィタウンの住人の皆に可愛がられているのだろう、彼女が奔放に振舞う様はしまキングに似ているようにも、同じくしまキングの孫である兄のハウに似ているようにも感じられた。そんな名前は、どういうわけか、ひどくグズマに懐いていた。

 グズマは、これまでの人生の中で子供に好かれたことなど一度も無かった。もちろん子供と接触してこなかったからという理由もあるにはあるが、乱暴な振る舞いや態度など、グズマが子供受けする要素は一つもない。
 それなのに、名前はグズマを少しも怖がらなかった。それどころかこうして本の読み聞かせを頼んだり、ままごとをしようと誘ってきさえする。確かに、ハラの家に置いてもらっている以上家人には親切にすべきであり、グズマも比較的に名前に丁寧に接していたが、猫撫で声を使って懐柔しようと試みたことはないし、グズマよりも他の内弟子の方がずっと名前を可愛がっている筈だ。グズマとしては、怖がらせないよう努めているが、それだけなのだ。むしろ、必要以上に近寄らないようにしている。

 見ず知らずの子供に泣かれた事こそあれど、寄ってこられた経験など無いグズマには子供の扱い方など解らない。しかしながら、名前は臆する事無くグズマに近寄ってくる。まさかポケモンと同じ扱いをするわけにはいかず、さりとて無下にするわけにもいかず、結局、壊してしまわないよう無駄に気を遣う日々だ。
 ――スカル団のボスであるグズマ様に読み聞かせをねだるなんざ、名前くらいのものだろうよ。
 プルメリあたりがグズマの現状を知れば、「良かったね、モテ期じゃないか」などと言って笑っただろうか。


「――で、めでたしめでたしだとよ」
 グズマがこれで終わりだとばかりに本を閉じれば、名前は「おもしろかったねえ」とけらけらと笑った。何が面白いものか。グズマは他の連中のように、名前向けにドラマチックに読んだりなどしていない。文字を追い、ただ声に出すだけだ。
 名前は途中からグズマに凭れ掛かっていたが、殊勝にも寝ずにグズマの言葉を追っていたらしい。グズマありがとう、と、ちゃんと礼を言える辺り、教育が行き届いていると言わざるを得なかった。
「何だよ、もう一冊くらい読んでやろうか?」
 名前はグズマの言葉を聞くと一瞬嬉しそうにしたものの、首を横に振った。「んーん、いい」
 思わぬ拒否に、グズマは聊か拍子抜けした。それどころか、良くなったように気分が一気に下降している。
「……何だよ、遠慮しなくて良いんだぜ。どうせハラのジジイもまだ帰ってこねえしよお」
「ん、いいや。ありがとグズマー」
 そう言って、名前は再度グズマの胸に頭を預けた。グズマが真下を見下ろすと、逆さになった名前の顔が目に入る。
「あーあ、グズマがほんとのお兄ちゃんだったら良いのに」
「んだよ、それ」
 グズマは思わずそう呟いたが、名前は至極真面目な様子だった。「だって、ハウくん帰ってこないんだもん。グズマはやさしーし、一緒にご本も読んでくれるもん」


 ――ああそう言えば、確かにしまキングの家を間借りしている内弟子の中で、一番年下なのはグズマだった。
 ハウは、グズマの目から見ても“理想的な子供”だった。元気にすくすくと育った子。愛されて育った子。しかしながら、その妹からは、必ずしも理想的な兄というわけではなかったらしい。
「……おい、名前。やっぱりもう一冊持ってこいよ」
「いいの?」
「ああ。いいぜ」グズマは笑ってみせた。「まったく、特別だぜ、このグズマ様がここまでしてやるなんて、お前くらいのモン――」
 グズマは途中で口を噤んだ。部屋の入り口から、ぱさりという軽いものが落ちる音が聞こえてきたからだ。なかなか帰れないのだから、と、奮発して買ってきたのだろう大きなマラサダは、残念ながら欠けてしまったに違いない。「……勝たなきゃいけない勝負は楽しくないけど、それとこれとは別だよね……」
 ハウは既にモンスターボールを手にしており、未だグズマの腕の中に居る名前は「あ、ハウくんだ。おかえりー」と嬉しがる素振りもみせない。グズマは自分の頬がひくりと痙攣するのを感じた。こうして火蓋は切っておろされ、グズマは完膚なきまでに叩きのめされることとなった。

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