for the birds

 確かにそれは、ほんの出来心だった。
 今になってみれば、久々の授業でアがっていたとしか思えない。三年になってから、環は普段の授業よりもむしろ、校外活動に行く事の方が多かった。評価されているのだと、そう思えば有り難い事なのかもしれないが、如何せん、環にとってみれば延々と苦難が与え続けられているような状況で、ついていくだけで精一杯の毎日を送っていた。そんな最中、好意を抱いている相手と数週間ぶりに顔を合わせれば、そりゃ、誰だって舞い上がってしまうじゃないか。
 ゆっくりと、再現した“それ”を広げる。風を切ることに特化したそれは、ゆうに三メートルはあるだろうか。しかしながら、環が再現したことのあるパーツの中でもいっとう軽い。少し動かしただけで、環の身体は簡単に浮き上がってしまうだろう。本来であれば、環の体格を鑑みると、もう少し小さめのサイズで再現すべきなのだろう。が、環はそうしなかった。
「これが……名前の……」
 鏡に映るのは当然環の姿だが、その背には、茶褐色の大きな翼が生えていた。


 何故名字名前を好きになったのかと問われても、環はきっと、上手く答えられないだろう。
 もっとも一番の親友であるミリオだってこの事を知らないし、環は今までもこれからも、ずっと胸に秘めておくつもりだった――ただ、憧れたのだ。自分が持っていない何もかもを持っている名前に。その憧れが次第に形を変えていった、それだけの話だ。
 いつからだったろう、雄英に来るよりずっと以前から身体を鍛えていたのだという名前の手は大きく節だらけで、いつか自分もあんな風になれたらと思っていた。思っていたのに、いつしかあの手に触れてもらいたいと、そう思うようになっていた。
 ――この日、久々に授業に参加した環は、偶然にも名前とペアを組み、演習を行うことになった。なんて事はない、いつもの対人格闘演習だ。いくらペアの相手が名前だからといって、真剣にやらない理由にはならない。しかしながら、ただ、本当に、ちょっとだけ魔が差してしまったのだ。
 ふわっと、それは宙を舞った。
 環は反射的に、それを掴んでしまった。そして、名前が「どうした?」と問い掛けるその直前、思わずそれをポケットに入れてしまっていた。名前の翼から抜け落ちた、小さな一枚の羽を。
 環は「な、何でもない」と慌てて答えたのだが、自分でも何故そんな事をしてしまったのか、そして何故それを――たかだか、抜け落ちた羽根を掴んでしまったことを――名前に素直に言えなかったのか、さっぱり解らなかった。環が何をしたのか全く見ていなかったらしい名前は、「そうか?」と別段気にした様子もなく相手チームを探索に戻った。それで、終わる筈だった。

 鳥類に詳しいわけではない環は、自分が飲み込んだ名前の羽がどういう部位の羽なのか、少しも知らなかった。せいぜい、風切羽ではないのだろうなと、その程度の認識だ。
 今度、ちゃんと勉強しようか。
 今後名前の翼を再現する事は無いにしても、空を飛ぶことが出来れば大きなアドバンテージになるだろう。災害救助の時など殊更役立つだろうし、敵の追跡も容易になるかもしれない。もっとも、飛べる翼を持つ生き物を食べる機会はあまり多くないだろうが、それでも、知っていて損になる事は無い筈だ。
 やっぱり、きちんと調べよう――そう思った時だった。「あれ、天喰じゃん」



 環は、バッと振り返った。その勢いに圧されてだろう、目をぱちくりと瞬かせた名前。「びっくりした……何だよ」
 お前眼力つええんだからちょっとは気ィ遣えよ、と、笑っている名前を前に、環は愕然とした。見られて、しまった。
「晩飯から揚げだったん?」
 最初こそそう言って笑っていた名前だったが、尋常でない環の様子に気が付いたのか、段々と怪訝そうな表情を浮かべる。「天喰、その羽さあ……」

 名前の翼をちゃんと見たかったから――たったそれだけの理由で、男子便所なんかに居るんじゃなかった。こんな深夜に誰かが起きて来るわけがないと思っていたし、名前本人が来る可能性なんて、尚更考えていなかった。
「……フーン、何、俺の羽でも食ったわけ?」
 何も言えない環を前に、名前は大体の事情を察したのだろう。再度、名前は小さく「フーン……」と呟いた。
 聞いた事もないような、名前の冷え切った声。
 そりゃ、クラスメイトが深夜二時にトイレで半裸で立っていて、その上自分の一部を食べた事が確定している今の状態で、引かないという方がおかしな話だ。自分の馬鹿さ加減にも嫌気が差したが、名前がもう自分と口を利いてくれないだろうという事に一番ショックを受けている自分が嫌だった。
 魔が差した。それは半分本当で、半分は嘘だ。名前の翼に自由に触れることが出来ればどんなに良いだろうと、そう思ったのだ。「――……ごめん」

 謝罪の言葉を口にした瞬間、もう戻れないところまで来てしまったのだと、そう思った。
 なるべく見苦しくないように――しかしながら、声を抑えようとすればするほど嗚咽が出てくるのは不思議なもので、環は不恰好に泣いた。涙は止まらないし、謝罪混じりの嗚咽はかなり聞き苦しい。どうすれば上手く泣けるのかなんて、今の環にはもう解らない。ただ、まるで馬鹿みたいだと冷静に判断する自分も居たことは事実だし、環以上に名前の方が驚いていた。
「オ、オイ、悪かったよ」名前が焦ったようにそう言ったのが解った。「別に……責めてるわけじゃないんだよ。言い方きつかったかもしれねえけど……ちょっとビビッただけだよ。“個性”食べて再現できるって事も解ったんだし、結果オーライではあるだろ? な?」
「食べたいって思う事くらいあるよな、解るよ」
 環が勢い良く顔を上げると、今度こそ名前はびくっと身を震わせた。な、何だよ、と、恐る恐る呟く名前。「いやその、お前授業の時とか蛸足生やすじゃん? たこ焼きとか食いたくな――オイだから泣くなって」
 一瞬引っ込んだ涙が再び溢れてきたのを見たのだろう、名前は聊か焦ったように言った。それから服の袖を乱暴に擦り付けてくる。
「ほんと何なんだよ、お前今日おかしいよ」
「俺、好きだ、名前のこと」
 ぴたりと、名前が動きを止めた。「名前のこと、好きなんだよ」

 涙にまみれ、霞んだ視界でも、目の前に立つ名前がどんな表情をしているのかははっきりと見て取れた。「……何」
「それ、何……つまりどういう意味?」
 俺に入れたいって事?と、半信半疑に口にする名前に小さく首を振る。「じゃあ何……逆? とか?」

 答えない環を見て、名前は何を思ったのだろう。環がこっそりと名前の羽根を持ち帰ったことも、そして名前の翼を再現して性的興奮を感じていたことも、理解してしまっただろうか。黙り込んだ名前を前に、再び涙がせり上がってくるのを感じた。
 はぁ、と、小さな溜息が聞こえた気がした。「もう解ったから、泣くなよ」

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