邂逅

※捏造しかない

 点検表を手に、名前は小さく欠伸を漏らした。好評を博している――そう自惚れても良いだろうナイトアクアリウムもこの日の営業を終え、時刻は間もなく深夜に差しかかろうとしていた。
 普段と違う魚達を見てもらえるのは嬉しいけど、こう毎日だときついんだよな。
 再び出掛かった欠伸を、名前は無理やり噛み殺した。この点検を終えれば、名前の今日の業務は終了だ。動物系“個性”の職員が何人か居る関係もあり、あまり大事にはならないだろうとは思うが、それでも日々の作業は欠かせない。温度良し、湿度良し、魚の状態良し。目視ではあるものの、展示水槽を一つ一つ確認していく。
 三度目の欠伸をしようとした時、名前の頭に衝撃が走った。「痛った!」
「良い度胸じゃねえか……」
 振り返ってみれば、当然そこに居るのは見慣れた先輩だった。どうやら名前の頭を叩いたのは、制服の襟から突き出た彼の三つ目の手らしい。「おまえの評価が俺の評価に繋がんだよ。そこの所わかってる?」
「先輩のそういう意識高い所、私超尊敬してます」
「おまえを踏み台にしてやっても良いんだよ」
 苛々とした調子で口にする先輩に、名前は「すみません」とごにょごにょ言った。しかしながら、無言で監視カメラを指し示す辺り、彼は本当に良い先輩だと思う。
 今度は、完全に死角の場所で欠伸をしよう。もっとも、設置されているカメラは展示に危害が加えられないようにする為であって、一従業員が何をしたところで咎められる事なのないのだが。疲れと眠気で上手く回らない頭でそんな事を考えながら、名前はふと思い出したことを口にした。「ねえ先輩、最近、館長どこか変じゃないですか?」

「……ハァ?」先輩は訝しげに問い返した。アクリルガラスに向かって立つ彼の顔に、青い光がゆらゆらと反射している。「何だ? 藪から棒に」
「いえ、ちょっと思っただけなんですけど……」
 特に気にしていたわけでもないのだが、思わず口から出てしまったのは、彼が就職した頃から世話になっている先輩だからなのだろう。しかしながら、改めて言葉にしたことで、名前の中にあったただの違和感が、奇妙に真実味を帯びていく。「だって最近、なーんか上の空って感じじゃないですか? ナイトアクアリウム、評判自体は結構良いですけど、まだそこまで売上には繋がってないですよね。いつもの館長なら苛々しそうなものなのに、全然だし。それに、こないだ会議に遅刻してきたって聞きましたよ。ありえないじゃないですか、あの館長が遅刻って」
 彼は暫くの間、黙って名前を見返していたが、やがて、「結構考えてんだね、おまえ」と、褒めてるんだか貶してるんだか解らない言葉を寄越してくれた。
「気にし過ぎなんだよ」
 名前の仏頂面を見てか、先輩は「遅刻っつっても何十分も遅れたわけじゃねえ。せいぜい一分とかそこらだった筈だ」と付け足した。「あの人だって俺らと同じ人間なんだよ。調子の乗らない時だってあんだろ」
「そうですかね……」
 彼の言葉に、名前は最後に会った館長の事を思い返す。調子が乗らないだけ。本当にそうだろうか。どこか漫然とした彼の様子が普段と違う気がしたのは、名前の勘違いなのだろうか。名前が挨拶した時、彼は何て返事をしたっけ?
 うだうだ言ってねーでさっさと終わらせろ、明日も仕事だろが――そう口にする先輩に「私明日は非番なんで!」と主張すると、先程よりもきつめに殴られた。


 憧れだった水族館に就職が決まり、名前は親元を離れて一人暮らし始めた。なるべく職場に近い位置を、と選んだので、今日のように終電を逃しても何とか歩いて帰ることができる。明日はゆっくりするつもりだからと、欲張って食材を買い込んだのが仇になってしまった。「いけないなあ、お姉さんみたいな人が、こんな夜中に出歩いちゃあ」

 家に向かう途中、男に声をかけられた。(“個性”の関係もあるのだろうが)見るからに人相の悪い男だった為、無用なトラブルを避けるようと、大丈夫です、と、そう返事をしたのがまずかったのだろうか。名前がその男の前を通り過ぎてからも、「一人で大丈夫か?」とか、「家まで送っていこう」とか、口々に声を掛けてくる。名前が無視をしてもお構い無しだ。
 名前は段々と早歩きになったが、男は難なく着いて来た。男がかなり大柄なことも関係しているのだろう。それどころか隣に並ばれ、ぐっと顔を覗き込まれる。
「最近何かと物騒だろう? こんな所に居たら、攫われちまうかもしれない」
 すだれのような前髪の隙間から、微かに覗く左目が怪しく光っていたのを、名前は確かに目撃した。

 手にしていた買い物袋を振りかぶると、男はぐっと呻いた。ちょうど顔面に当たったらしい。普段からバケツを持ち歩いているのが役に立ったのかもしれない。名前は一目散に駆け出したが、数メートルも進まない内に追いつかれてしまった。腕を掴まれ、そのまま細い路地に連れ込まれる。
 男は乱暴に名前を壁に押し付けた。逃げようともがくものの、自分の喉元を抑える手に、鋭い鍵爪が生えていることに気付き、一気に及び腰になってしまう。「いいね、従順な女は大好きだ」
「誰かっ……」
「残念ながら、正義の味方はお留守番だ」
 にやっと笑ってみせる男からは、獣のような匂いがした。
 ――ヒーローも来ない、逃げられもしない。名前に出来るのは、また明日が迎えられることを願う事だけだ。しかしながら、名前の諦念も、覚悟も、そこまでだった。「ベアヘッド、何してる」

 名前のものでも、目の前の男の声でもない、第三者の声。ベアヘッドと呼ばれた男は、まるで何事も無かったかのように名前を開放した。本当なら、死ぬ気で逃げるところだろうが、生憎と名前にはそんな余力がなく、じりじりと距離を取ることしかできない。
「あんたがあんまり遅かったから、退屈していたんじゃあないか」
「言い訳させる為に聞いたんじゃないんだよ」
「チッ……」
 男はすっかり名前に興味を失ったらしく、新たに現れた男の方へ歩いていった。
 不思議な男だった。奇妙な格好を――まるで敵のような格好を――しているにも関わらず、名前は不思議とその男を怖いとは思わなかった。確かに二人を比べてみれば小柄だし、悪意も感じないが、得体の知れない存在であることは確かなのだ。男の背後から学生のような小柄な女の子が顔を覗かせて、ますます訳が解らなくなる。
 不意に、男と目が合った。
 歪な潜水服のようなヘルメット。その隙間から覗いていた黒い目が、僅かに細められる。あっ、と、名前は気が付いてしまった。見覚えが、ある。ついこの間、ああいう目をされたじゃないか。
「館――」
「さっさと帰れよ、名字」
 名前が言い切る前に男はそう言い、やがて姿を消した。名前は呆気に取られたまま、暫くその場にへたり込んでいた。今度出勤した時、どういう目で彼を見れば良いのだろう。全部が自分の想像だったのではと思い込むには、腕に広がる痛みが邪魔をした。

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