うもれたい

 見慣れた後姿に、思わず「おっ」と声が漏れた。街の片隅、忘れ去られた喫煙スペースに、彼女は居た。「名前やんけ」
 ファットガムの声に反応したのだろう、振り返った女はやはり名字名前その人だった。ファット、と呟くように言った名前。それからゆるゆると煙を吐き出す。もっともすぐに視線は外され、ファットガムは内心で嘆息した。

「調子どうや」
「ぼちぼちでんなあ――ってそんな訳があるかアホ」
 ひどく苛々しているらしい事は見て取れたが、ノリツッコミで返してくれるくらいには余裕があるようだった。しかしながら、「お前吸わへんやろ、早よどっか消えてくれや」と、取り付く島もない。放っておいて欲しいのだろう名前の意向を汲み、言われるまま立ち去ってしまおうかとも考えたが、結局、ファットガムはこのまま居座ることにした。
 お節介はヒーローの本質だと、誰かが言っていた。
「……なんやあ? まだあの件引き摺っとるんか」
 案外ナイーブなんやなとファットガムが笑うと、名前は「うっさいわアホ」と小さく言った。

 名前はファットガムと同じ、プロのヒーローだった。事務所が近所だった事や歳が近い事、デビュー時期が近い事もあって、仲はそこそこ良かった。会えば何時間だってくだらない話に興じていられるし、同じ事件を解決した際には一緒に飲みに行く事だってある。本気で酔っ払った名前が笑い上戸になる事を知っているのは、ヒーロー仲間では自分だけだという自負さえあった。
 そんな名前は、少し前、とある事件で小さなぽかをやらかした。幸いなことに死傷者は出なかったが、救助に優劣をつけた等と騒ぎ立てる輩が居たせいで、名前はかなり世間から叩かれることとなった。もっともネットの見出し欄にちらっと載るくらいのものだったし、七十五日も経たない内に悪評も消えていった。しかしながら、彼女にはそれがかなり堪えたらしい。その事件からゆうに二ヶ月は経っていたが、時折街で見掛ける名前の表情はいつも険しかった。ネットで叩かれた事もそうだが、初めに騒ぎ始めたのが救けられた者の一人という事が、一番堪えたのだろう。
 普段であれば、名前は冗談できつい事を言う事こそあれ、今のように乱暴な言い方をする事は無かった。大分お疲れやなあと一人ごちる。
「よっしゃ」ファットガムが言った。「ファットさんにいっぺん言うてみ! 全部抱き止めたるわ!」

 名前は暫くの間、何も言わずファットガムを見詰めていた。ファットガムもまた、名前を見詰めていた。やがて、ふーっと名前が紫煙を吐き出す。ハッと名前が小さく笑ったのはその時だ。
「その『コイツ何言ってんねん』みたいな顔やめーっ!」
「みたいちゃうわ。ほんまにそう思てんねん」
「怒るで!」
 プンプンや!とファットが言うと、「かっわいな……」と名前は肩を揺らした。かなり失礼ではないだろうか。
 名前は咥えていた煙草を灰皿に押し潰すと、新たな煙草を取り出そうとポケットに手をやった。しかしながら、不意に動作を止める。
「……ファット」
「おう」
「お前さっき、抱き止めたる言うたな」
 淡々と言葉を紡ぐ名前。どうも悩みを打ち明けようとしているようにも見えず、彼女が果たして何を言わんとしているのかさっぱり解らなかったが、ファットガムは再び「おう」と返事をした。「言うたでー、それが仕事みたいなとこあるしな。文字通り」
「いっぺんお前の腹に引っ付いてみたいんやけど」

「ハァ!?」ぎょっとしてそう叫んだファットガムに、名前は煩わしそうに目を細めた。そのまま取り出した煙草に火を点け、再び口に咥える。ふっと煙を吐き出した名前を見て、漸くファットガムの思考も動き始めた。
「いや……いやおまえ何言うてんねん」
「抱き止めたる言うたやんか」
「言うたけどもや!」
 言葉の綾やろとファットガムが言うと、名前はうっすらと笑った。中途半端に開いた彼女の口から、数筋の細い煙が立ち昇る。「ええやろ、人の温もりに甘えたい時もあんねん」
「さっむ!」
「どつくで」


 あー、と満足げな声を吐き出している名前とは裏腹に、ファットガムは気が気ではなかった。いくら人通りが少ないとはいえ、こんな街中で、しかもコスチュームを纏ったまま誰かを抱き締めているだなんて。もっとも正確に言えばファットガムは名前の背中に恐る恐る手を添えているだけで、抱き着いているのは名前の方だ。
「いや……」ファットガムが小さく言った。「いやあかんやろ……この構図……」
「人の頭の上でぶつくさ言うなや。うっさいねん」
 それを言うなら、人の腹の前でぶつぶつ言わないで欲しい。しかしながら、疲れているながらもどことなく楽しそうな表情を浮かべている名前を前に、ファットガムは口にするのをぐっと我慢する。
「あー……思ってたより気持ちええわ……」
 ふかふかや、と呟くように言う名前に「お前俺の事なんやと思ってんねん」と小さくぼやく。ふふふ、と名前が笑ったのが、自分の腹を通して伝わってきた。何とも妙な心地だ。
「何やこれ、オッサンやのに何や凄い……凄い……」
「子供か」
 思わず突っ込んでしまったが、名前はますますファットガムの腹に顔をうずめるだけだった。「というかいやコレほんまあかんでコレ」
「あー?」
「うひっ! その手やめー!」
 脇腹を撫で下ろした名前の手を軽く叩く。けちやなあとぼやく名前に、ファットガムは誰がやと返した。
「あんな、ファットさんかて色々大変なんやで」色々と、勘違いしそうになってしまうのだ、と、その一言は飲み込んでおく。「今は“個性”発動してへんからええけど一旦ついてみ? ほんま取れんからな」
「……このまま沈みたいわ」
「聞けや人の話!」
 このまま沈んでまえば、ファットと一つになれるんやろか。そう呟いた名前は、やはりかなりお疲れらしい。

 背後で物音がしたのを合図に、ファットガムは名前を自分の腹から引き剥がした(ちなみに、音の正体は新聞紙が風に飛ばされただけだった)。
「はー……」放心しているらしい名前は、それからゆっくりと手を下ろした。「けち……」
「誰がや。出血大サービスやったやろが。それにこんなん誰かに見られてみいや、一発で首飛ぶやろ主に俺の」
「せやったら上の席が一個空くなあ」
「おまえ鬼か何かと違うか」
 ハグにはストレスを解消する効果がある――と、どこかで見た覚えがあったが、それはあながち間違いというわけではないらしい。最高に機嫌が良くなったとは言えないが、それでもこうして軽口に付き合ってくれるくらいには回復したらしかった。
 つい先程まで名前が自分に抱き付いていたという事実、そして彼女の身体が思いの外柔らかかったことを忘れようと努めながら、「まあアレやわ」とファットガムは言った。「何かあったらこのファットさんに言うてみ。愚痴の一つ二つなら聞いたるわ」
 あと煙草もほどほどにせえよ、とファットガムは続けたが、名前は「はいはい」と返事をしながらも再び煙草を取り出そうとしていた。
「ほれまたすぐ出すー! 俺嫌いやねん煙草の匂い!」
「へえ」
「……何やねん」
 ニヤーっと笑った名前。「よう言うなあファットガム、吸わん癖してこんな所来といて。最初から元気付けてくれるつもりやったんやろ?」
「……名前なんか嫌いや!」
 ははっ、と、名前は微かに笑った。「おおきに、ありがとうな」
 ファットガムは顔を顰めたままだったが、やがて小さく「……おう」と呟いた。子供じゃあるまいに、こんな一言一つで嬉しく感じてしまうなんてどうかしている。まさか疲れているのは名前ではなく、自分の方だったのだろうか。ファットガムの複雑な心境を知ってか知らずか、名前は静かに笑っていた。

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