酔眼

 すっかり寝こけているらしいクチナシを見下ろしながら、名前はなるほどと内心で呟く。いつもは寄り付きもしないニャースが、名前を探し出してまで交番へと連れて来たのはこういうわけだ。彼らの餌皿はからっぽだ。
「……おじさーん」
 返事を期待していたわけではなかったが、それでも名前は、クチナシが何の反応も返さないことに、ほんの少しだけ驚いていた。普段のクチナシは、くたびれてこそいるものの、そういった事には非常に敏感なのだ。気配だとか、物音だとか。やはりどう転んでも警官ということなのだろう。
 やっぱり自分のポケモンに似るものなのかね、と、名前は傍らのニャースへと手を伸ばしたが、ニャースは煩わしそうに名前の手をすり抜けていった。
 ――急病で倒れているわけじゃなくて良かった。
 そんな事を思いながら、やがて名前は踵を返した。眠りこけているクチナシを眺めているのもなかなか面白かったが、ずっとそうしているわけには行かない。勝手知ったる他人の交番、どこに何があるのか、名前は大体把握していた。


 名前がニャース全員分の餌をやり終えた頃、漸くクチナシは目を覚ましたようだった。むっくりとソファーから身を起こしたクチナシは、体に掛けられていた自身の上着を手に、不思議そうな顔をしている。
「おじさん起きましたー?」
 やっとの事で膝に乗ってくれたニャースを撫でながら、名前はそう声を掛けた。「寝るならちゃんとお家帰って、ベッドで寝た方がいいですよ。風邪引きます」
 返事が無いことを不審に思い、クチナシの方を振り向く。「クチナシさん?」
 ソファーに腰掛けたまま、ぼんやりとした眼差しで前方を眺めているクチナシは、寝惚けているというより、むしろ――。
「……おじさん酔ってるんですか?」

 先程上着を掛けた時、ふわんと香ったのは、名前の勘違いでなければ確かにアルコールの匂いだった。どことなく普段より血色も良い気がする。しかしまあ、彼がどのくらい嗜むのかは知らないが、交番で晩酌に洒落込むというのは如何なものなのか。誰かと一緒だったのかもしれない。
 寝惚け眼で――より正確に言うなら据わった目をしているクチナシから視線を外し、膝の上のニャースに向き直る。喉元を撫でてやると、ニャースはごろごろと喉を鳴らした。
 お腹が空いていただけとはいえ、彼らが自分を頼ってくれたのが嬉しかった。まるで懐いてもらえたかのようだ。名前がクチナシと顔を合わせるのはほぼ交番、つまりクチナシと会っているだけ彼らとも会っているわけで――どうやら顔を覚えてくれてはいるらしい。
 不意に、ニャースが名前の膝から飛び降りた。そのままクチナシの元に駆け寄り、にゃあと鳴く。その声につられてだろう、クチナシは普段通りの無表情のまま、ニャースを両手で抱き上げた。もしかすると、そうして抱っこするのがある種の癖になっているのかもしれない。
「おじさん水飲みます?」
「……ん」
 素直に答えるクチナシに、名前は少し笑った。

 ウォーターサーバーで水を注ぎ、クチナシに手渡す。一口飲み、「ん」とコップを差し出してくる彼に、介抱をしているというより、むしろニャースに餌をやっている気分になってきた。
 やっぱり持っているポケモンに似てくるものなのだなと、そんな事を思いながら、足元にやってきた別のニャースの背を撫ぜる。名前は今まで、自分はクチナシに会いたいが為にちょくちょくポータウンを訪れるのだとばかり思っていたが、もしかすると逆に、この交番に居る沢山のニャースに癒される為、彼に会いにきているのではなかろうか。昔からポケモンは好きだったし、押しても引いても何とも無いらしいクチナシの事を思えば、まったく有り得ない話ではない。
 アローラのニャースは固有種で、他の地方だと別の姿をしているというが、本当だろうか。
 自分でも捕まえてみようかな。名前がそんな事を考えた矢先、視界に影が差した。顔を上げてみれば、当然クチナシが立っていた。名前が屈み込んでいる事と逆光が相俟って、どこか異質な雰囲気だ。
 赤銅色の瞳から逃げるように、名前は視線を外す。「酔ってるなら早く寝た方が良いですよ。しまキングが二日酔いとか笑えない」
 視界の端で揺れるクチナシの足が見えたので、てっきり先のようにニャースを抱え上げるつもりなのだと思ったが、突然脇の下に手をやられ、思わず身を強張らせる。「……ちょっ!」
 先程まで名前の横でまどろんでいたニャース達が、一瞬の内に逃げていく。


 まるで子供を抱き上げるかのように名前を持ち上げたクチナシは、わあわあ喚く名前を見ながら、「重いな」とぼそりと呟いた。
「ええ!」名前が叫ぶように言った。自分でも顔が赤くなっているだろう事は解っていたが、それでも憎まれ口を叩かないではいられない。「そりゃ重いでしょうよ、ニャースに比べたらね!」
「さっさと降ろして下さいよ! 酔っ払いすぎです!」
「喧しいねえちゃんだな」
「クチナシさん!」
 怒りますよと名前が言ってもクチナシは意に介さないようで、「あんまり暴れると落としちまうよ」と静かに言うだけだった。当然、名前は黙り込むしかない。もっとも落とされるのが嫌なのではなく、名前が全力で暴れれば、むしろ彼の方が怪我をしてしまうかもしれないからだ。借りてきたニャースだな、と、薄っすらと笑みを浮かべるクチナシに、言いようのない憤りを感じた。

 さて、と小さく呟いたクチナシ。そんな彼に、漸くこの羞恥プレイが終わるのだとほっとした名前だったが、そのまま床に降ろされることはなかった。視界が暗転し、軽い衝撃と共に、暖かい何かに包まれる。「……ちょっと!」
 クチナシに抱きかかえられているのだと気付き、名前は声を荒げたが、当の本人は微かに眉根を寄せるだけだった。
「なん、何なんですかちょっと、離し……」
「名前」
 普段あまり呼ばれない名前という響きに、思わず名前は口を噤んでしまう。
「おじさん、これでも結構アルコール回ってんだわ。あんまり大きな声出さないでくれ、頭に響く」
 ――存じ上げてます! と、名前は言いたくても言えなかった。異性と、しかもクチナシとこれほど密着した事など、今まで一度も無かった。しかも、名前を抱えたままソファーに横になったクチナシは、明らかに寝る体制に入っている。
 嫌でも感じる体温だとか、何気に際どいところにある手だとか、意外に逞しい胸板だとか、耳に掛かる彼の吐息だとか、名前は全てを無視したかった。
「……家帰って寝てって、そう言ったのに」
「そりゃ誘ってんのかい」
 にやっと笑ったクチナシに、思わず名前は「違います!」と叫び返した。

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