58

 誰かに会わないかなと思いながら歩いていた名前だったが、結局誰とも擦れ違わない内に目的の部屋に辿り着いてしまった。五階の一番奥の部屋――蛙吹の部屋だ。
 名前が彼女の元まで来たのは、単純に彼女の部屋が気になっていたからだった。以前遊びに行った時は、女の子らしい部屋の中に弟妹の写真が飾ってあって可愛らしかった。まだ片付けが終わっていなかったら手伝おう、そんな事を考えながら部屋の戸を叩いた名前だったが、蛙吹からの返事はなかった。
「……梅雨ちゃーん?」
 何度かのノックの後そう呼び掛けたもののやはり返事は無く、出掛けているのだろうかと不思議に思い始めたその時、鍵の外れる音が聞こえ、蛙吹が顔を見せた。
 どこかいつもと雰囲気が違う彼女に内心で驚きつつ、名前は「私片付け終わったんだ、入ってもいい?」と問い掛ける。
 構わないわ、と、蛙吹は小さな声で言った。

 名前はてっきり、要領の良い蛙吹のことだから、既に部屋を作り終えているだろうと思っていた。しかしながら、蛙吹の部屋は片付けられているどころか、備え付けのベッドや机があるだけで、ダンボールの封も切られていないようだった。――まるで、運び込まれてそのままのように。
 名前が驚いている間に、蛙吹は静かにベッドへ腰掛ける。何も言わない彼女に、名前は急いで駆け寄った。「つ、梅雨ちゃん?」
「どうしたの、梅雨ちゃん、もしかして具合悪い?」
「……いいえ、そうじゃないわ」
 漸く応えてくれた蛙吹に安堵しながらも、名前は何があったのか気が気ではなかった。普段、蛙吹は名前を慰めてくれたり、励ましてくれたりする事こそあれど、こうして沈んでいるところを見せたことはあまりなかったのだ。どう声を掛けるべきか悩みつつも、名前は結局何も言わず、彼女の隣に座った。
 白いシーツが掛けられているだけのベッドが、小さくぎしりと音を立てた。


 少しの間、蛙吹は黙ったままだった。「名前ちゃんは……」
 名前は彼女の言葉を待っていたが、蛙吹はそう言ったきり口を噤んでしまった。西日が差し込み、辺りが赤く染まり始めた頃、「私ね」と蛙吹は静かに口にした。
「止めた気でいたの」蛙吹が言った。「いいえ、止められた気に、なっていたの」
 緑谷くん達の事? そう問い掛けると、彼女は頷いた。
「解っているのよ。友達を……誰かを救けるのがヒーローだって事は。けれど、だからこそ私は、同じクラスの仲間として、友達として、皆に行って欲しくなかった」
 爆豪ちゃんが無事で良かったとは思っているけれどね、と、蛙吹は付け足した。「情けないわ、本当に」

 静かに涙を流す蛙吹に、名前は何を言う事も出来なかった。彼女の左手に、そっと右手を重ねる。「……梅雨ちゃん、私ね」
「私、止められなかった」
 名前は病院での一件を話した。爆豪を救けに神野区へ赴く事に対しどう思うかと問われた事、自分の気持ちを正直に話した事、そして、飯田を止めなかった事。「ううん、止めなかったの」
「梅雨ちゃんは友達だから行って欲しくなかったって言ったけど、私は友達だからこそ、そうして欲しかった」名前が言った。
「私、飯田くんにはヒーローで居て欲しかったの」

 ――どれだけ正当な理由があろうと、ルールを破ってはならない。そう言ったのは蛙吹だった。
 名前だって、彼女の言う通りだと解っているし、その通りだと信じている。しかし結局、名前は何も解っていなかったのだ。ヒーローに向いていないと、再三言って聞かせた兄の言葉は、あながち間違ってはいなかったのかもしれなかった。
「梅雨ちゃん、梅雨ちゃんは何も間違ってないよ」名前が言った。「だからお願いだから、自分のこと情けないなんて言わないで」


 静寂が二人を包んでいた。どちらもが口を開かず、ただ時間だけが過ぎていく。いつしか日は暮れ、夜がすぐそこまで来ていた。――名前は、蛙吹に幻滅されてもおかしくないと思っていた。実際、もう嫌われているのかもしれない。彼女が手を振り解いていない、ただそれだけが救いだった。
「……名前ちゃん」
 蛙吹が口を開き名前の手を握り返したのと、部屋の扉がノックされたのは殆ど同時だった。名前はびくりと身を竦め、ぎこちなくドアの方を振り向いた。それからもう一度ノックがあり、「おーい梅雨ちゃん」と、蛙吹を呼ぶ声がした。恐らく芦戸だろう。
「その、梅雨ちゃん、呼ばれてるけど……」
 おずおずと名前はそう言ったものの、蛙吹は俯いたままで何も言わなかった。芦戸達が立ち去る気配は無く、名前は二度三度蛙吹とドアを見比べたが、やがて彼女の手を離し、ドアの方へと向かった。

 出迎えたのが蛙吹でなく名前だった事に、芦戸達はかなり驚いたようだった。部屋の中が暗かった事も原因かもしれない。ドアの外に立っていたのは名前の予想した通り芦戸と、それから耳郎と麗日だった。なんだ穴黒も一緒だったんだ、と笑う芦戸に、名前は聊か気後れ気味に笑い返した。
 どうやら、皆の部屋を見て回ろうという話になっているらしく、蛙吹を迎えに来たのだという。ちなみに、名前の部屋にも訪れたが留守だったので後回しにしたそうだ。
「ええと……梅雨ちゃんちょっと気分悪いみたいで……」名前が言った。
「そうなの? 大丈夫?」
 ぎこちなく頷いた名前を不思議に思わなかったらしく、芦戸達は薬貰って来ようかとか、何か要るものある?等と口々に言った。多分少し休んだら良くなると思うと名前が言うと、彼女達は名残惜しそうに去っていった。
 ドアを閉め、人知れずホッとしていると、すぐ後ろから「名前ちゃん」と蛙吹が名前の名を呼ぶ声がし、名前は飛び上がって驚いた。
 振り返った先には、当然蛙吹が立っていた。暗がりに立っている彼女がどんな顔をしているのか――最初、名前には解らなかったが、段々と目は暗闇に慣れていった。彼女は、優しく微笑んでいた。「名前ちゃんなら、きっとそう言うだろうって思ってたわ」

[ 277/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -