56

 行き先も無く、ただ衝動に身を任せてひたすらに歩いていた名前は、自分が段々と早足になっている事に、少しも気が付いていなかった。見慣れた景色、なのにどこか懐かしさすら感じるような、そんな景色を眺めて歩いていると、やはり人は段々とノスタルジーな気持ちになっていくのだろうか――。
 ぼたぼたと流れ落ちてくる涙を、乱暴に拭いながら歩いている女子高生が居れば、人目を引くのも当然で、名前は何度か通行人に奇異の目を向けられていた。困惑し切った末に声を掛けられることだって、特別不思議なことではなかった。「君、だ、大丈夫か?」


 目深に被っている帽子と、首に巻き付けているストールのせいで表情は読めなかったが、名前に声を掛けた男は酷く焦っているようだった。その声には、心配そうな色がはっきりと滲んでいる。
「どこか悪いのなら病院に――」
「大丈夫です」名前はそう答えながらも、自分の声が存外普通に聞こえたことに驚いた。せいぜい、普段よりどこか強張っているくらいだ。
 すみません、そう断って名前は立ち去るつもりだったのだが、意外にも男が食い下がった。
 そういう訳にもいかない、と、男は言った。
 何なら病院まで付き添うし、知らない男と行くのが嫌なら救急車やタクシーを呼んだって良いし、親や学校へ連絡するのでも良いから――困ったように言葉を続けている男を眺めながら、名前はこういうのをお節介と言うのだろうなと、そんな事を考えていた。顔は解らなかったが、男の口振りは、確かに名前を心配しているように感じられた。

 ――心配。
 13号が名前を雄英に行かせたくないのだって、心配してくれているからこそなのだろう。名前だってそんな事は解っていた。名前は子供だが、兄の真意が解らないほど、分からず屋ではなかった。ただ、だからこそ、余計に悲しいのだ。
 名前はただ、13号にだけは認めてもらいたかった。それだけだ。

 名前が声を上げ、わんわんと泣き始めると、男はますますうろたえたようだった。


 対処に困ったのか――少なくとも急病ではないと判断したらしい男は、恐々と名前の手を引き、近くの公園までやってきた。そして、公園のベンチに座らせられた時には、既に名前も殆ど泣き止んでいた。子供のように大泣きしてしまった上、しかもそれが見ず知らずの男の前だったという事実に、今更ではあるものの、死にたくなるほどの羞恥を覚える。
 帽子を被った男は名前が座ったのを見てその場を離れたが、すぐに戻ってきた。何故か缶ジュースを二つ手にしている。名前がまごついていると、「飲むと良い、落ち着くから」と、男は半ば強引に名前に押し付けた。自販機で購入したばかりなのだろう、水滴の浮かぶアルミ缶はひどく冷たかった。

 名前に気を遣ったのか、それとも周りの目を――もっとも、この暑さのせいか、公園には人っ子一人居なかったが――気にしたのか、男は名前から少し離れてベンチに座った。そして懐から自前らしいストローを取り出し、静かに飲み始める。どうやら、名前から離れる気はさらさら無いらしかった。
 すみませんと名前が呟くと、男はただ、静かに「いいんだ」と言った。
「何か辛いことがあったんだろう。泣くことは悪いことじゃない」
 私くらいの歳になると、上手く泣けなくなるものだ――そう小さく口にしてから、男は滔々と語り始めた。泣くことでストレス発散に繋がるという事に始まり、逃げ場所を作っておくのは重要だという事等々。しかしながら、やがて名前も気が付いた。「……あの」
「うん?」
 澱みなく動いていた男の口が閉じる。どうやら此方を向いたらしかった。
「その、私、別にいじめとかじゃないので……」
「あ……そ、そうかい」
 依然として表情は読めなかったが、男の声には幾分か安堵の色が伺えた。

 雄英での生活を続ける内、名前の身体はいつしか傷だらけになっていた。小さいながらもいくつかは古傷として残っているし、期末試験の時に出来た青痣は未だに消えきっていない。その上で泣いていたのだから、いじめやら、家庭内暴力やらを想像してしまうのも無理はないのかもしれなかった。
 名前は、ぽつぽつと話し始めた。自分がヒーローになりたいと思っている事、そしてそれに兄が反対をしている事、通っているヒーロー科の学校を辞めさせられるかもしれない事――“見ず知らずの誰か”だからこそ話せる事も、確かに存在していた。名前の手の中で、未だ口の開けられていない缶がぬるくなっていく。
「私ただ、お兄ちゃんに認めて欲しかっただけなのに……」
 男は黙って耳を傾けていたが、名前が話し終えると、「そうだな」と小さな声で言った。「私は兄弟こそ居ないが、君のお兄さんの気持ちはよく解るよ」
「ヒーローは危険な仕事だ。誰も、君に怪我して欲しいなんて思わない筈だ」
 男の言葉に、名前は俯いた。「――だが」
「大事なのは、君がどうありたいかだ。危険が付き纏う職業だが、君が本当になりたいと思っているのなら、お兄さんだってきっと解ってくれる筈だ」


 名前は暫く、男を見詰めていた。どことなく聞き覚えのある声だったが、どこで聞いた声なのかさっぱり思い出せなかった。無言で見られることに居た堪れなくなったのか、男は「な、何だい」とどこか不安げな声で尋ねた。いえ、と名前は小さく呟く。
「その……そうやって、ヒーローを悪く言うっていうか、良い仕事だって言わない人って珍しいなって思って……」
「……あー」男は決まりが悪そうに、帽子を深く被り直した。「まあ、そうなのかもしれないな」

 ヒーローは、そう良いものじゃない――兄の口癖だったそれを、他人の口から聞くのは珍しかった。弱きを救うヒーローは皆の憧れの職業で、それは万人の共通だった筈だ。
「――あの、すみませんでした、ご迷惑をおかけしてしまって」
「いや、構わない。気にするな」
 名前が謝罪の言葉を口にすると、男は即座に否定した。「君のことは、何度でも救けたいと思っているから」


 その言葉の意味を考えようとした時、遠くから名前の名を呼ぶ声がした。見れば、公園の入り口に13号が立っている。恐らく名前を迎えに来たのだろう。大きく手を振っている彼に向かって、名前も仕方なく、そっと手を振り返した。
「色々聞いて貰ってありがとうございました。それであの、すっごく今更なんですけど、お名前を――」
 名前は13号から視線を外し、男に向き直ったものの、隣に座っていた筈の男はいつの間にか忽然と姿を消していた。驚いて辺りを見回してみるものの、結局男は見付からず、仕方なく名前は兄の元へと駆け寄った。
 13号は最高に機嫌が良い顔をしているとは言い難かったが、それでも名前の姿を見ると、「おかえり」と普段のように穏やかな声で言った。「さっきの彼は知り合いかい」
「えっ、ううん」
 名前が首を振ると、13号は静かに「そう」と言っただけだった。意外なことに、特に気にした様子もない。彼は名前が手にした缶ジュースを見るも、やはり何も言わなかった。

 そのまま歩き始めた13号を、名前は慌てて追い掛ける。
「相澤先輩は帰ったよ」13号が静かに言った。「それと、君はまだ雄英に通っても良いそうだ」
 どこか不貞腐れたようなその声に、名前は密かに安堵した。両親は13号の主張より、名前の意思を尊重してくれたのだろう。「ヒーローっていうのは」
「置いていく職業なんだ。君なら充分解ってるだろ。僕は家族よりも、君よりも、他の大勢の人を選ばなきゃならない。けど――」
 けど僕は、君に置いていかれたくないんだ。13号は小さくそう言った。数日後、名前は他の1年A組の生徒と同じように、再び雄英高等学校の門をくぐり抜けた。

[ 275/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -