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 林間合宿三日目、名前はこの日も延々と重力を発生させ続けていた。“個性”を使い続ければ体が慣れるというのは本当のようで、じわじわと苛むような腕の痛みも、最初よりは気にならなくなってきていた。もっとも、“個性”がどうこうというより、単に名前自身が痛みに慣れてきただけかもしれないが。
 そんな事を考えながらも、名前は先程の相澤の言葉を思い返していた――原点。

 彼の右手には、痛々しい傷痕が残っていた。普段の授業ではこんな風に観察する暇はないし、そもそも実技ではグローブを着けていることも多いので、今のようにまじまじと見たことはなかった。はっきりと聞いたわけではなかったが、確か、体育祭の時の怪我による傷ではなかったか。反動の大きい“個性”だと解っている筈なのに、彼は一切の躊躇なく、拳を振るうのだ。
 前髪の先から垂れた汗が一瞬光った末、地面へ呑み込まれていく。
 汗だくのままふと顔を上げた緑谷出久は、自分を見詰めていた名前と目が合うと、少し不思議そうな顔をした。名前は慌てて顔を逸らしたものの、怪訝に思われているだろうなと一人恥ずかしくなる。そして漸く、自分を呼ぶ声に気付いた。「名前氏」
「ご、ごめん。何、宍田くん」
 B組の宍田獣郎太は、小さく「いえ……」と口篭るように言った。彼の様子を見るに、どうやら何度か名前のことを呼んでくれていたらしい。「熱中症ですかな? ぼうっとしていたようでしたが……この暑さです、もう少し水分を取った方が良いと思いますぞ」
 無理は禁物ですぞと大真面目に言った宍田に頷きつつ、宍田くんの方が暑そうだけどねという言葉は口に出さなかった。ビーストという“個性”を持った彼は、体中を毛に覆われているのだ。
「ていうか、さっきまでと感じ違うね?」
「ああ……“個性”を使うと、どうもハイになってしまって」
「ハイに」
 名前達のやり取りを見てだろう、虎が各自水分補給を行うようにと名前達に指示を出した。名前が“個性”の発動を解くと、三人ともそれぞれほっとしたような顔をした。

「というかあの、昨日から聞きたかったんだけど、どうして宍田くん達は私のこと、名前で呼ぶの……?」
 やっとのことでペットボトルの蓋を外した名前は、水を飲みながら小さくそう尋ねた(連日の訓練のせいで、握力まで馬鹿になっていた。今度からはもっと空けやすいボトルに入れるようにしようと、密かに心に決める)。問い掛けられた宍田は意外そうに眉を上げ、それから隣に立つ回原と顔を見合わせた。回原は名前を見遣りながら、小さく頬を掻く。「その、俺ら実は名前ちゃんのほんとの名前知らないんだよね」
「鉄哲が名前って呼んでるから下の名前は知ってんだけど……黒穴さん? だっけ?」
「あまりに名を呼ばれるものですから……お会いするより先に名前だけ覚えてしまいましたな」
 穴黒ですと名乗りながらも、そうなんだと言うより他に仕方がなかった。ちなみに訓練終了後、言いようの無いやるせなさに任せ、名前は鉄哲の背へ向けパンチを繰り出した。しかしながら、“個性”を発動させてもいないのに、名前の右手に筋肉痛ではない痛みを残すだけの結果となってしまった。


 昨日と同じように、この日の夕食も自分達で作る手筈となっていた。机の上に並べられている食材は、先日のものとよく似ている。「……肉じゃがかあ」
「そういや、穴黒って料理できんのか?」

 確か地方組だよな、と、同じ班になった砂藤が小さく言った。そういう彼は、確か鳥取出身だった筈だ。自分と同じように地方出身だから、同じように一人暮らしだろうと、そう考えたのかもしれない。私お兄ちゃんと暮らしてるからと説明した上で、名前は「普通、かなあ……」と呟いた。その声が小さくなってしまったのは、口で言うほど料理に自信が無いからだ。
「砂藤くんは上手そうだったよね」
 昨日の作業風景を思い出しながら、名前は言った。確か、彼はその巨体に似合わずてきぱきと作業を行っていた筈だ。
「そうかあ?」砂藤は若干気恥ずかしそうに頭を掻いた。「ま、一人暮らししてるとどうしてもな」
 肉じゃがって難しいよねえと名前が言うと、彼は頷く。じゃがいもの煮崩れ易さが種類によって違ったりするしなと。
「でもあれだよね、ご飯の後は肝試しだし!」
 三時間ほど前、ピクシーボブから告知がなされていた。夕食の後、クラス毎に別れて肝試しを行うと。頑張ろうねと名前が笑うと、案外ノリノリなんだなと砂藤も笑った。しかしながら結局、名前達が肝を試すことはなかった。



 ずりずりと引き摺られながら、名前は相澤を見上げた。「すいません、先生」
 名前達六人をその捕縛武器で捕らえ、引き摺っている相澤は、ひどく面倒くさそうに後ろを見遣った。普段よりずっと低い位置で、しかも逆さから見る彼の顔は、普段より恐ろしげに見える。相澤は口を閉ざしたままだったが、名前はそれを、まだ喋っていて良い合図だと判断した。「その……私達も、“解って”ますから」
 何の為に、こうして引き摺られているのかという事を、解ってますから。
 ――夕食の後、レクリエーションの時間が設けられていた。合宿の案内にはちらりと書かれていたものの、あの雄英でそんな学校らしい行事を作ってくれるのかと、皆が期待していたのだ。しかし前日の補習が原因で昼間の訓練に集中できていなかったからと、名前達補習組は肝試しに参加することなく、補習授業が行われることになっていた。
 相澤は暫くの間無言で名前を眺めていたが、やがて足を止め、名前達全員が立ち上がるのを待った。もっともまだ放してくれる気はないのか、上半身はまったくと言って良いほど動くことができなかったが――宿泊施設はもう目前だ。

「今回は非常時での立ち回り方を叩き込む。周りから遅れを取ったっつう自覚を持たねえと、どんどん差ァ開いてくぞ」
 相澤はそう言った後、ふと思い出したように付け足した。「広義の意味じゃこれもアメだ、ハッカ味の」
「ハッカは旨いですよ……」
 げんなりとした様子で切島が答えた。そして、扉の先を見た彼が微かに眉を寄せる。「あれえおかしいなァ!」

 優秀なハズのA組から赤点が6人も――そう続けたのは、当然B組の物間だった。
 名前達はそれぞれ思うところがあったものの、力なく笑い続ける物間に何も言えず、各々席に座り込む。ブラドキングも先日のように物間を咎めることはせず、相澤と授業について打ち合わせを始めていた。皆の脳内に、彼女の声が響いたのはその時だった。『敵二名襲来!』


 会敵しても決して交戦せず、撤退を――その言葉を最後に、マンダレイからの通信は途絶えた。もしかすると、彼女自身が既に敵と接触しているのかもしれない。
 生徒の保護にと相澤が走り去った後、その場にはただ物間の声だけが響いていた。「――バレないんじゃなかった!?」

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