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 案外遅かったなと、常闇は静かに言った。

 静かな夜だった。他の男子はまだ浴室に居るのか、遠くから微かに笑い合う声が聞こえてくる。ぽたりと、名前の髪から雫が垂れていった。
 常闇がそっと、組んでいた腕をほどく。
「先日はすまなかった」

 名前が「先日?」と問い返すと、常闇は僅かに視線を落としたものの、彼の赤い眼は再度名前を映した。「先月の」
「先月って……基礎学のこと?」
 常闇は頷き、やがて重い口を開き始めた。
「俺の“個性”……黒影は、文字通り俺と一心同体だ」常闇が言った。「俺は黒影をサポートしてやりたいと思うし、黒影も俺を救けてくれる」
「ただ……奴は時折、闇に魅せられる」
 独特の言い回しに、名前は困惑した。ええと、と呟くように言うと、常闇は目を伏せ、「つまり、闇の中ではコントロールが効きにくいんだ」と小さく言った。
 言い澱む常闇は、もはや名前を見ていなかった。「普段から押さえ込んではいるのだが、あの時は路地の暗がりと、そしてあの場に居たのがお前だったことで、制御がし切れなかった」
「俺は、お前のことが嫌いだ」

 廊下の窓から差し込んだ月明かりが、二人を柔らかに照らしていた。
「――……お前は、良い“個性”を持っているのに、努力を怠る」
「うん」
「勉学だってそうだ。お前なら、もっと良い結果が出せる筈だ」
「うん」
「普段の授業でだって、お前の“個性”コントロールをもってすれば、もっと優秀な成績が修められるだろう」
「……うん」
 再び、「俺はお前が嫌いだ」と、常闇が小さく言った。
「ただ、俺のそんな勝手な感情でお前に危害を加え、あまつさえ怪我までさせてしまったことは、本当にすまないと思っている」
 名前は無意識の内に、右手を擦っていた。名前の腕が痛むのは、“個性”の使い過ぎによるものであって、決して常闇のせいではない。しかしながら、名前がそう言っても、常闇は首を振るだけだった。「これからは、お前になるべく近付かないようにする」
 すまなかったと、再度常闇は言った。

 怪我をしない内に早く帰れ。そう言って、常闇は顔を背けた。
 黙り込んでしまった彼を、名前は暫くの間見詰めていた。嫌いだと、そう言われてショックが無いわけではなかったが、彼の言葉は尤もだった。勤勉で努力家の彼からしてみれば、名前のようにいい加減な態度で通っている生徒が煩わしく見えるのは当然だ。
 名前がそっと常闇の手を取ると、彼は顔を上げ、怪訝そうに名前を見詰めた。
「私、自分の“個性”が嫌いで」名前は小さく言った。誰かに怪我させちゃうかもって思うと、なかなか使えなくて。「だからこの間の期末も、芦戸さんと上鳴くんに迷惑掛けちゃって……今練習中なの」
 そう言って微かに笑うと、常闇は呟くように「知っている」と言った。
「……だからさ、常闇くんも練習してこうよ。黒影くんと、もっと一緒に頑張れるように」


 暫くの間、常闇はずっと黙り込んでいた。やがて小さな溜息が一つ。
「また怪我をするぞ」常闇が言った。
「いいよ。不測の事態に対応してこそヒーローだもん」
 そう名前が笑ってみせると、常闇は暫くそんな名前を眺めていたが、暫くして、もう一度小さな溜息を吐いた。
「穴黒、お前存外考え無しだな」常闇は苦笑いを浮かべながら、やんわりと名前の手を握り返した。



 そのまま常闇が歩き出したので、名前は少しばかり困惑した。彼の手を握ったのは確かに名前だったが、まさか、そのまま歩き出すとは思わなかったのだ。しかしながら常闇が普通にしているので、仕方なく名前も手を繋いだまま、彼の半歩後ろを歩く。
 気恥ずかしさを打ち消そうと「黒影くん大人しいね」と名前は言った。返事は無いものと思っていたが、常闇は静かに「そうだな」と言った。「――黒影は、俺の本心を写す」

「まあ、つまりそういう事だ」
 常闇はそう言って名前の手を離した。困惑している名前を見てか、「明るいしな」とも付け足す。何が、つまりそういう事なのか――名前が尋ねようとしたちょうどその時、行く手の曲がり角から、蛙吹と麗日が歩いてきたところだった。後から思えば、常闇は彼女達に気付いていたからこそ、手を離したのかもしれない。もっとも、この時の名前は少しも気が付かなかったが。
 蛙吹達は、それぞれ旅行用の歯磨き用具を手にしていた。名前達に気が付いた二人が手を振り、名前も小さく振り返した。それから、常闇は名前に髪はちゃんと乾かせと言い残し、男子が泊まる大部屋の方へと去っていった。
 遠ざかる背を見詰めている名前に、良かったわね、と、蛙吹が静かに言った。名前が小さく頷いてみせると、ただ一人麗日が不思議そうに首を傾げていた。

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