46

 バスから荷物を降ろし、それぞれの部屋――女子は普通サイズだが、男子は人数の関係から大部屋だ――に運んだ後、名前達はすぐに食堂へ向かった。相澤らしい無駄の無い進行だったが、この時ばかりは文句の一つも上がらなかった。飲まず食わずで宿泊施設まで走ってきたおかげで、皆くたくただったのだ。
 やってきた食堂では、既にB組の面々が揃っていた。どうやら、名前達よりも先に施設に辿り着いたらしい。もっとも、ぼろぼろ具合ではA組とさほど違いはなかったが。くやしー!と体全体で悔しさを表現する芦戸を宥めつつ、名前は促されるまま飯田の隣に腰掛けた。どうやら出席番号順に座ろうという事らしかったが、先に轟や上鳴達が座っていたせいで、プランを変更せざるを得なかったらしい。
 飯田の意思を尊重する意味を込めて隣に座ったわけだが、青山から麗日までの頭文字あ行組だけきちんと番号順に座っているのは、なかなかに異様な光景だ。ちなみに、反対側に座っているのは葉隠達出席番号後半組で、彼らも飯田の圧に押されたのか殆ど席順で並んでいたが、八百万だけ葉隠の隣にちょこんと座っていた。もしかすると、峰田から何かを感じ取ったのかもしれない。

 ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツの面々が用意してくれたのだろう夕食は、空腹も相俟ってとても美味しかった。誰かが肉も魚もあるなんて贅沢だと言ったが、本当にその通りだ。もっともピクシーボブの言葉からして、明日からは自分達で食事も用意しなければならないらしいが。
 しかしながら、名前は折角のそんな食事を、心から味わうことができなかった。
「名前ちゃん、この肉団子おいしいわよ」
「あ、うん」
「穴黒くんこっちのサラダは食べたかい、ヒーローは体が資本だ、何でも食べないといけないぞ」
「う、うん……」
 ひどい筋肉痛のおかげで腕が上手く動かせなかった名前は、両隣の蛙吹と飯田から、あれやこれやと世話を焼かれることとなっていた。大丈夫だと言っても皿に盛ってくる辺り、流石ヒーロー科とでも言うべきなのか。真正面に座る爆豪から怪訝な目で見られるのもなかなか厳しいものがあったが、斜向かいの緑谷から微笑ましいものを見る目で見られるのは更に居た堪れない。最終的に、名前は普段の食事量より遥かに多く食べることになってしまい、明日からは他の人の隣に座ろうと密かに心に決めた。


 マタタビ荘の浴場は、所謂銭湯のようなタイル張りの浴槽の他、小さいながら露天風呂も設けられていた。敷石が丁寧に磨かれていたり、庭木が綺麗に刈り込まれている辺り、普段から宿泊施設として使われているのかもしれない。
「温泉あるなんてサイコーだわ」としみじみと呟く蛙吹に、名前も静かに頷く。ともするとそのまま寝てしまいそうだ。しかしながら、耳に飛び込んでくる喧騒に、名前はそっと目を開いた。
 どうやら言い争っているらしい声は、板塀の向こう側から聞こえてくるようだった。塀を挟んだ先は、一般的な造りなら男湯が広がっている筈だ。「峰田くんやめたまえ!」

 ――聞こえてきたのは飯田の声らしかったが、何が起きようとしているのか一瞬で理解できてしまった名前は渋い顔をした。まさか本当に実行はしないだろう、と、そんな風に思いながらも、名前は先よりも深く湯に浸かりつつ、何となく胸元を手で覆う。更衣室での一件もあるし、犯罪行為だろうと何だろうと、峰田なら是が非でも覗こうとするに違いなかった。どちらかというと性善説寄りの考え方をしている名前でも、ここ数ヶ月の付き合いで、彼が煩悩の塊であることは理解していた。
 壁とは超える為にある、などと校訓を絡めてまで叫ぶ峰田の声に、もはや苦笑も起こらなかった。恐らく“個性”の球体を使い、ロッククライミングの要領で壁を登ってきているのではなかろうか。視界の端で、耳郎の耳朶がするすると伸びていくのを、名前は目撃した。

 しかしながら、峰田の目に再度イヤホンジャックが突き刺さることも、強酸性の液体が降り注ぐことも、強い重力に引っ張られて落ちることもなかった。
 男湯と女湯は一枚の板で仕切られていたわけではなく、それぞれの壁と壁との間にいくらかの隙間があるらしかった。壁の天辺に見えたのは、例の男の子――マンダレイの従甥であるという、出水洸汰の後姿だった。

 名前達の位置からははっきり見えなかったが、どうやら洸汰が峰田を押し返したらしかった。断末魔のような峰田の叫び声が、少しずつ小さくなっていく。まあヒーロー志望が何人も居るし、そう大事には至らないだろう、と、名前がそっと胸を撫で下ろした時、芦戸の声が聞こえたらしい洸汰が名前達を振り返った。それから、ぎょっと目を見開く。驚いた拍子にバランスを崩したのか、そのまま後ろに倒れていく洸汰に、名前は慌てて湯から飛び出した。手を上に向け、何とか落下を食い止めようと、地球の重力とは反対方向に重力を発生させる。
 名前のような発動型の“個性”に当然手応えなどあるはずもなく、洸汰が無事なのかどうかは解らなかった。もっとも、男湯が騒ぎになっている様子はないので、あのまま落ちてしまったということはないのだろう。
「ええと……飯田くん? 洸汰くん大丈夫?」
 取り敢えずと、峰田を諌めていたらしい飯田に声を掛ける。
「大丈夫だよ、穴黒さん!」返事をしたのは飯田ではなく、どういうわけか緑谷だった。「けど気を失ってるみたいだ。僕、これからマンダレイの所へ連れてくよ!」
 最後の“よ”がかなり小さく聞こえてきたことから考えるに、既に緑谷は走り出していたようだった。固まっている名前に、一瞬送れて「峰田くんも無事だぞ」と、少しばかりくぐもった飯田の声が投げ掛けられた。

 重力の発動を解き、湯船に戻った名前は、隣に居た八百万に突然飛び出したことを謝った。名前が急に湯から上がったことで、多少なりとも飛沫が掛かった筈だ。しかしながら、八百万は苦笑いを浮かべつつ、首を振るだけだった。
 洸汰の無事を伝えると、皆それぞれほっとしたような顔をした。
「あ、あと峰田くんは、飯田くんがちゃんと見ててくれるって」
「うーん、飯田さんなら安心、かしら……」八百万が呟いた。
 結局、峰田の件もあり、名前以外の皆は先に上がることに決まったらしい。数分後、しっかりと体を温め直した名前も湯から出たが、浴室にもその先の脱衣所にも、クラスメイトの姿は見当たらなかった。服を着て、髪を拭きつつ浴場を後にする。そして当然、壁に背を預け、腕を組んだまま佇んでいる同級生と、名前は鉢合わせることになる。
「――……常闇くん?」
 名前がそう呟くと、常闇踏陰は閉じていた目をゆっくりと開き、名前をじっと見据えた。

[ 265/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -