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「く――」肩口から垣間見えた見覚えのあり過ぎる姿を前に、名前は反射的にその右手を引き離そうと手を伸ばした。しかし名前の手が触れる直前、何かが口に入れられる。それが黒霧の左手の指だと気が付いたのは、口の中に煙のようなものが広がった時だった。微かな息苦しさの中、文字通り霧散していく黒い霧が、視界の端に映る。
 私を吸い込もうなんて思わないでくださいね、と、黒霧は言った。
「私はこのままあなたの体の中にワープゲートを作ることができるわけですが……その意味、解りますよね?」
 名前がゆっくりと腕を下ろすと、肩口から覗く異形の男は僅かに目を細めたようだった。「よくできました」


 普段の名前であったなら――もしくは、今名前を抱え込んでいるのが13号に大怪我を負わせた黒霧でなく、別の敵だったなら、もう少し冷静でいられたのかもしれなかった。今の名前は、店の外が騒がしくなっていることにも、黒霧の身体自体には物理攻撃が有効だということにも気付くことができなかった。
 こんなに人の多いところに呼ばないで欲しいんですがねと、どこか疲れたように呟いた黒霧は、名前の顔を覗き込みながら淡々と口にした。ご友人の姿を見付けたから声を掛けたのだ、と。ぐっと、頬を握られる。「始めに言っておくと、穴黒名前、私は今のところ、あなたに危害を加えるつもりはないのですよ」
「いえ何、とても勿体無いと思いましてね。それほど良い“個性”をお持ちなのに、ヒーローなぞにしておくのは勿体無い。羨ましい限りだ。もっとも、仲間になりませんかと誘ったところで、はいなりますと頷いてくれるとは思っていませんが……考えたことはありませんか? 自分の“個性”が、ヒーローなどよりよほど敵に向いていると」

「いつでもお声掛けください、歓迎いたしますので」
 それでは、いずれまた。口の中の異物感が消えると同時に、背後にあった気配が無くなった。
 漸く人々のざわめきと、店舗の封鎖を伝えるアナウンスが名前の耳に届き始める。暫くの間茫然と立ち竦んでいた名前だったが、やがてずるずるとその場にへたり込んだ。
 陳列棚の間で座り込んでいる名前を見て、探しにきてくれたらしい障子はかなり慌てたようだった。顔が真っ青だぞ、具合でも悪いのか――そんな事を口々に言っていた障子は、焦り切った末、最終的に六本の腕で名前を抱え上げ店を出た。

 放送にあった敵の侵入が、黒霧のことにしてはおかしいと思ったが(通報する暇も無ければ、辺りに人の姿も無かったからだ)、どうやら他にも敵が居たらしい。死柄木弔――相澤に怪我を負わせた、痩身の男。
 黒霧と死柄木、それぞれと会敵した名前とそして緑谷は、その日の内に事情聴取を受けることになった。


 雄英襲撃に保須での事件等、敵連合の起こした事件を受け、国は特別捜査本部を置いたのだと名前達に説明したのは、塚内直正だった。以前、USJでの一件の後、名前に護衛を付けてくれた若い刑事だ。「辛いことを思い出させてしまってすまないね」と眉を下げる塚内に、名前はどことなく居た堪れなさを感じた。
 取調べが終わったのは、すっかり日が沈んでからだった。塚内と、それから塚内の部下である玉川に連れられ、名前と緑谷は外に出る。「緑谷少年! 塚内くん!」
 聞き覚えのあるような声に、名前は俯いていた顔を上げた。骨と皮ばかりのような、痩せた男が此方へ向かって歩いてくるところだった。明るい金の髪は前髪だけ長く、右と左へ流されていた。癖が強く、途中で二度三度と曲がっている。後ろ髪は軽く撫で付けられているだけなのか、方々へ飛び散っていた。着ている服のサイズが異様に大きいせいもあって、随分と痩せ細っているように見えたが、落ち窪んだ目元に浮かぶ二つの目だけは青く光り輝いていた。
 名前達に向かって――というよりは、緑谷と塚内に向かって手を振っているらしい男は、名前と目が合うと何故だか焦ったような表情を浮かべた。しかし、どことなく見覚えのある男なのだが、どこて見たのかさっぱり思い出せない。
「オッ――」緑谷は何かを言い掛けたようだったが、言葉が途中でどこかにつっかえてしまったのか、何を言うでもなく黙り込んでしまった。
 一瞬、奇妙な沈黙が流れる。
 やがて金髪の男性が「おっ、弟よ!」と両腕を広げ、緑谷は目を丸くし、どういう訳か塚内が噴出した。

 緑谷の親戚のおじなのだという金髪の男と緑谷、そして金髪の男と元々知り合いらしい塚内が何事かを話している間、名前と玉川は少し離れた場所で彼らの様子を眺めていた。似てないオジサンだなと、玉川が呟く。
「そうですね」名前が小さく相槌を打った。
「――……いいかい、名前ちゃん」
 玉川の声に、名前は顔を上げる。猫そのものの顔をしている玉川の表情は、ひどく読み取り辛かった。「君らのおかげで実質被害は無かった。ここから先は俺達警察や、ヒーロー達の仕事。名前ちゃんが気にすることじゃない」
 いいね、と念を押すように口にした玉川は、どうやら慰めてくれているらしかった。ありがとうございます、と小さく呟いた名前に彼は微かに髭を震わせ、そのままわしわしと名前の頭を掻き回した。


 それから少しして、名前達の名を呼ぶ声がした。13号と、緑谷の母親だ。
 緑谷の母親は、授業参観の時と違い、痛々しいまでの表情を浮かべていた。彼女の大きな目から、一粒一粒と涙がこぼれていく。
「もうやだよ、お母さん心臓持たないよ……」

 名前は緑谷の母親と、困ったように謝る緑谷を見ていたが、再度「名前」と名前を呼ばれ、声の主を見遣った。名前を呼んだのは当然13号だ。もっとも、普段のコスチュームは着ていなかったが。
「お兄ちゃん……」
 名前の呟きが聞こえたのだろう、緑谷は「えっ、13号先生!?」と驚きの声を上げた。そんな彼に、13号は口元で人差し指を立て、「秘密ですよ」と13号らしい口調で口にする。それから13号は、もう一度「名前」と名前の名を呼んだ。
「お――」緑谷や塚内、玉川の見ている前だったが、名前は既に堪えることができなかった。「――お兄ちゃあああん!」

 わんわんと泣きながら13号にしがみつく名前を見て、緑谷はかなり驚いていた。――同い年の女の子がこれほど声を張り上げて泣くところなど、今までに見たことがなかったからだ。


 結局のところ、名前は怖かったのだ。命を握られる、その感覚が。
 今まで、名前は命の危機に瀕していなかった。雄英が襲撃された時は、黒霧は13号の足止めが主だったのだろう、名前達に向かってこなかったし、職場体験の時に会敵した時は近接戦闘を行う切島のサポートが主だった上、そもそもにして人殺しなどできそうな連中ではなかった。
 他の客に危害が及ぶかもしれないから、蛙吹達が襲われるかもしれないから――そんな風に考えなかったわけではないが、結局名前が黒霧に対し何もできなかったのは、単純に、あの男が怖かったからでしかなかった。
 13号にあれほどの大怪我を負わせた黒霧が憎かった。殺してやりたいとすら思った。
 しかしながら、名前はただただじっとしていることしかできなかった。じっとして、時が過ぎてくれることを祈ることしかできなかった。塚内や玉川はおかげで被害が出なかったのだと言ってくれたが、名前の場合は結果的にそうなっただけで、緑谷のように他を考えて行動したわけではないのだ。名前は自分のことしか考えられなかった。

 13号が優しく背を撫でる度、名前の口からは小さな嗚咽が漏れた。

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