02

 骨抜が食堂に赴いたのは、四時限目の終了を告げるチャイムが鳴って暫く経ってからだった。プレゼント・マイクという男は聊かテンションが高過ぎるものの、教え方は非常に上手く、むしろ気分良く教わらせてくれるので、ついつい長居してしまったのだ。鉄哲達は居るだろうか。そんな事を考えながら、注文口に向かった骨抜は、列の最後尾に並んでいる女子生徒に見覚えがある事に気が付いた。

 肩を叩けば、名字はかなり驚いたようだった。振り返った彼女の、マスクの上から覗くその橙色の目が、真ん丸と円を描いている。数日前に会った時と変わらず、名字はマスクをしていた。「よ」そう言って片手を上げてみせれば、彼女はやがて小さく会釈した。
「こないだはありがとね。あんたのおかげで傷、すぐ治ったよ」
 骨抜はそう言って、自身の額を指し示した。名字の視線が動く。骨抜の額の右側、そこには既に瘡蓋の剥がれ掛けた切り傷があった。もう間もなく完治することだろう。怪我に気付いた時は出血がひどく、やらかしたと思ったが、何てことはない、治癒を受けることもなく治ってしまった。不思議と痛みは少なかったし、傷口が再び開くこともなかった。
 こっくりと頷いてみせた名字に、骨抜は内心で苦笑を漏らした。先日のやり取りで彼女が無口だとは知っていたが、こうまで無言を貫かれると、何やら悪いことをしている気分になる。しかしマスクの上から覗く彼女の表情は一切変わらないし、骨抜は良いように解釈することにした。今の頷きも、恐らく「よかったね」とか、そういう事だろう。

 二人で話していると――もっとも、喋っているのは専ら骨抜だ。骨抜が話し、名字が首を振って応える。プレゼント・マイクの授業って案外普通だよなと言うと、彼女は力強く頷いた――すぐに順番が来た。ランチラッシュは名字の姿を見止めると、「日替わり定食で良かった?」と小首を傾げる。名字は頷いた。どうやらメシ処の常連らしい。
「じゃあ俺もそれで」
「オッケー!」
 親指を立てるランチラッシュ。もう一方の手は忙しなくフライパンを揺すっていた。炒飯らしきものが四、五回宙を舞った時、受け取り口に二人分の日替わり定食が現れた。どうやら今日は鯖の味噌煮が主菜らしい。
 それではこれで、とでも言いたげに会釈をした名字だったが、骨抜が「どうせなら一緒に食おうよ」と口にすると、少々悩んだようだった。そりゃ、骨抜と名字は先日会っただけで、特に仲が良いわけでも、付き合いがあるわけでもない。自分の顔がいかついのも承知している。正直なところ、できれば遠慮したいと思うのが普通だろう。
「友達と約束でもしてる?」駄目押しでそう問い掛ければ、彼女はやがて小さく首を横に振った。


 向かい合わせで空いていた席に二人で座る。名字が躊躇無くマスクを外したので、骨抜は少々意外に思った。風邪を引いているわけでもないとなると、もしかすると自分のように口が裂けていたりするのかもと、そう考えていたからだ。骨抜自身は自分の容姿をさほど気にしていなかったが、女子であればそう楽天的に構えていられない筈だった。“個性”による異形を整形で直そうとする者は、圧倒的に女性が多い。
 まあ、飲み食いは不便だけどな。
 現れた名字の口は、ごく一般的なそれと同じ口をしていた。歯が剥き出しになっていることもなければ、嘴状になっていることもない。骨抜の視線に気付いたのか、彼女は微かに首を傾げてみせる。どうやら口を利く気はやはり無いらしかった。
「何でもない。食お食お」
 骨抜がそう言って笑うと、名字も小さく頷いた。彼女が無言で手を合わせるのを眺めながら、骨抜も定食に手を付けることにした。

 彼女のことを、リカバリーガールは「愛想が無い」と評したが、実際それは当たっていた。骨抜が喋っている間も、彼女は本当に首を動かすだけだったのだ。目線はきちんと骨抜の方を向いている上、彼女の相槌も一度頷くだけ時もあれば二度三度と続けて頷かれる時もあり、話を聞く気が無いわけではないらしいのだが。
 表情もあまり変わらないし、こんな調子でクラスメイトと仲良くしていられるのだろうか――と、そんな野暮な事を考えてしまったが、もしや一人で昼食を取る気だったのではと気付いてしまい密かに動揺する。「あのさ」
「一応聞くけど、俺のこと覚えてないわけじゃないよね?」
 骨抜がそう尋ねると、名字は顔を上げた。口を噤んだままじいと自分を見詰める名字に、何となく不安になる。しかしながら彼女はやがて、小さな声で「骨抜くん」と言った。
「そ」骨抜はほっとした。「俺、骨抜。骨抜柔造。1−B」
 名字はゆっくりと頷いた。自分も名乗ろうとしたのだろうか、名字がその小さな口を開きかけた時、校内にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。



 非常ベルが鳴らす火災警報とも、携帯が知らせる地震速報とも違うそれは、まさしく警戒警報だった。校庭へ避難するようアナウンスが流れ、生徒達は我先にと非常口へ流れ始めた。骨抜達一年生には“セキュリティ3”の意味が解らなかったが、どうやら学校内に誰かが侵入したらしい。
 人波に流されないよう気を付けながら、骨抜も出口を目指し足を急がせる。ふと、先程まで一緒だった女子生徒はどこへ行ったかと辺りを見回した。食堂を出た時までは確かに一緒だったのだが、いつの間にか骨抜の視界から消えていたのだ。――万が一に敵が侵入していたのだとしても、食堂にそれらしき姿はなかったので、ちゃんと逃げているなら良いのだが。それでも骨抜が名字の姿を探したのは、彼女が拳藤のように力強い女子生徒ではないからかもしれない。
 ふと、橙色と目が合う。

 名字はその瞳に骨抜を宿すと、ほんの少しだけ目を見開いた。逃げ惑う生徒達の中で、特別大柄ではない彼女は今にも弾き飛ばされそうだ。露になった彼女の小さな口は、きゅっと結ばれたままだった。骨抜からふっと目を逸らした名字は、前の人の足でも踏んだのだろうか、何度も頭を下げている。
 ――救けを求めたって、罰なんて当たりやしないのに。
「名字!」
 人と人の間を掻い潜り、彼女の手を掴んで引き寄せる。ぽかんと口を開けて、自分を見上げる名字の顔はなかなか見ものだった。


 骨抜が名字を引っ張った直後、騒動の原因が侵入したマスコミだと判明した(それを知らせたのは、骨抜の記憶が正しければ一年A組の生徒だった)。人の流れは徐々に緩やかになっていき、骨抜と名字もやがて歩みを止める。
 しかしまあ、マスコミが侵入してくるなんて、流石オールマイトだと内心で溜息をつく。ふと制服の袖を引かれ、骨抜は自身の右手を見遣った。制服の袖を掴んでいるのは当然ながら名字で、彼女のもう一方の腕を自身が掴んだままであることに気付く。
「ごめん」
 そう言って手を離せば、名字は小さく首を振った。
「あの……」名字が言った。静かな声だった。「どうして、その……私の……」
「うん?」
 口篭ってしまった名字に、骨抜は数秒意味を考える。「ああ、名前のこと?」
「リカバリーガールに聞いたんだよ。こないだ帰った後、たまたま会ってさ。女子が居たって言ったら、多分名字だろうって」
 納得したのだろう、名字は頷いた。
「名字名前です。1年E組」

「救けてくれてありがとう、骨抜くん」
「……ん」
 面と向かってここまではっきりと礼を言われたのは、生まれて初めてかもしれなかった。
 何となく気恥ずかしさを覚えつつ、彼女が予想通り同い年だということに、骨抜はほっと胸を撫で下ろした。今までずっと、彼女にはタメ口で話していた。先輩だったとしたら具合が悪い。

 名字が微かに眉を下げたので、骨抜はどうかしたのかと問い掛けた。マスクを落としてきたのだと、彼女は困ったように言う。
「大丈夫か? 一回戻ろうか?」
「……んん、大丈夫、と思う」
 珍しく口で答えた名字に、骨抜もそうかと頷き返した。どうやら花粉症というわけでもないらしい。

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