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 振り返ると、今にも名前に襲い掛かろうとする黒影と、そんな黒影を必死で止めようとする常闇の姿があった。しかしながら黒影の力が凄まじく、常闇はほぼ引きずられている状態だ。
 何故黒影が名前に対し攻撃を仕掛けているのかは解らないが(常闇の様子を見るに、彼の意思ではないようだ)、常よりも膨れ上がり、凶暴な黒影は、名前の目にも恐ろしげに映った。

 慌てて逃げるように走り出すも、影の腕が名前の行く手を遮り、そのまま高架を叩き壊した。かろうじて足場は残っていたものの、バランスを崩した状態で、黒影の二撃目をかわすのは不可能だった。伸びてきた影が名前を横様に殴り付ける。あっ、と、思った時には既に遅く、名前は数メートル先の円筒型のタンクに叩き付けられた。そのまま何とかタンクに張り付くが、突然猛烈な痛みが腕に走り、“個性”の発動が解けてしまった。
 当然、発生していた重力は消え去り、名前の体は地球の重力に従い落下していく。
「っや――」何とか壁にしがみ付こうとするものの、“個性”を発動させるどころか、激痛のあまり動かすことすらままならなかった。名前に残されたのは、打ち付けないよう頭を抱えることだけだ。

 ぎゅっと目を瞑り、衝撃に備えるものの、腕に響いている以上の痛みは訪れなかった。ぐっと、何かに支えられている。恐る恐る目を開いた。視界に広がるのは、申し訳なさそうにしているクラスメイトの顔だった。
「と……常闇、くん……」
 所謂お姫様抱っこで名前を抱えている常闇は、どうやら名前を受け止めてくれたらしかった。黒影はいつしか息を潜め、彼のコスチュームの下に戻っている。いつもと何ら変わりのない、寡黙な同級生の姿だった。
「……こ」名前が呟いた。「こわ、かった」
 声に出すと、改めて恐怖が蘇ってくる。――落下の時の、ふわっと浮いたような気味の悪い感覚。死ぬかもしれないという絶望的な恐怖。そして獰猛なまでの変貌を遂げた黒影。

 紐無しバンジーへの恐怖と、腕の痛み。それから安堵とで、名前は自分の目から涙が滲んでくるのを止められなかった。救けてくれてありがとう、そう嗚咽混じりに呟くと、常闇はただ一言、すまんと小さく言った。


 腕の激痛が引かなかった名前は、常闇に抱えられたまま保健室に赴いた(名前がいくら言っても、彼は聞き入れてくれなかったのだ)。結果は、軽度の肉離れ。治癒を施され、リカバリーガールに小言を貰った後、名前達は運動場γへ戻った。しかしながら残りの組もレースを終えた後らしく、既に講評に入っていた。ちなみにレースの一位はそれぞれ瀬呂、爆豪、障子、それから蛙吹だったそうだ。
「敵を捕まえるにも、誰かを救けるにも、時間は重要だ。一分一秒を争うようなそんな場面に、君達はこれから何度だって遭遇するだろう。遅れて登場じゃあお話にもならない。その事をしっかり肝に銘じておくんだぞ」



 実技の授業は、基本的に課題をこなしている生徒の他は、彼らの様子を見学することになっている。運動場のあちらこちらにカメラが仕掛けられており、映像を見て、生徒達はクラスメイトの良い所を吸収し、自身の課題を見付けていく。体育祭の時のように人感センサーが取り付けられているものもあるが、基本的には定点カメラだ。もしかすると、予算の関係があるのかもしれない。
 モニターには、落ち掛けた名前を常闇が受け止めた場面はかろうじて映っていたようだが、どうやら黒影が暴走したところは撮られていなかったようだった。

 怪我はよかった?と尋ねる蛙吹は、名前を心配そうに見やるだけで、常闇のことには一切触れなかった。名前が頷くと、蛙吹は「それなら良かったわ」とどこかホッとしたような顔付きになった。
「ねえ梅雨ちゃん、“個性”が暴走することってあるのかな」コスチュームを脱ぎながら、名前はそれとなく問い掛けた。ブラウスを着ようとしていた蛙吹はその手を止める。彼女はちらりと名前を見やり「暴走というと?」と小首を傾げた。
「緑谷ちゃんみたいな、反動が大きなものという意味かしら」
「うんと……こう、“個性”自体が別の意思を持ってる場合っていうか……」
「それって――」
 蛙吹は途中で口を閉ざし、名前から顔を背けた。不思議に思い、彼女の視線の先を追うと、何の変哲も無い壁があるだけだった。しかしながら、名前もやがて口を噤む。壁に阻まれ小さくはあるものの、声が聞こえてきたからだ。「見ろよこの穴ショーシャンク!」

 峰田の声だった。名前達が今居るロッカールームには、その隣に男子用のロッカールームが併設されていた。よくよく見てみれば、蛙吹が見詰めている先の壁には小さな穴が空いている。その穴から、隣の更衣室の声が漏れているのだ。
 峰田の声はますますヒートアップしているが、まさか気付かれていないとでも思っているのだろうか。「――八百万のヤオヨロッパイ!」
「芦戸の腰つき! 葉隠の浮かぶ下着! 穴黒のアナクロッパイ!」
 突然自分の名が挙がり、名前はぎょっとした。思わず顔が赤くなり、脱ぎ掛けていたコスチュームで胸元を隠す。しかしながら、壁の前に耳郎がゆらりと立ち塞がった。彼女のイヤホンジャックが、音も無くするすると伸びていく。「麗日のうららかボディに蛙吹の意外おっぱァアアア――」
 瞬間、勢い良く壁の穴へ差し込まれたコードに、名前は安心しつつ心の中で合掌した。名前達には聴こえなかったが、恐らく峰田には爆音の心音が届けられたに違いない。その後、主に八百万の協力により、諸先輩達の負の遺産は無に帰すこととなった。

 綺麗に修繕された壁を前に、漸くほっとして着替えを再開する名前だったが、「あるかもしれないわね」という小さな蛙吹の声に、彼女を見上げた。立ち上がり、既にシャツを着終えていた蛙吹は、名前をじいと見下ろしていた。「その人が何を考えているかなんて、当人以外は解らないでしょう? “個性”の場合も、同じようなものだと思うわ」
「……だよね」
 蛙吹は、どこまでも冷静だ。ええと頷いた彼女は、名前が何を言おうとしているのか解っているだろうに、「名前ちゃんって例え話が下手なのね」と言うだけだった。救助訓練レースで何があったのか、彼女は聞かなかった――名前とも、そして常闇とも友達だからだ。
「名前ちゃん、スカートを取ってくれる?」
「……置いてかないでね」
「四十秒で支度してちょうだい」
 スカートを手渡し、どこか急ピッチで着替え始めた名前に、蛙吹は小さく笑った。その日、帰りのホームルームでは林間合宿について知らされた。しかしながら、名前は常闇に何かあったのか聞けないまま、結局一ヶ月が過ぎてしまった。

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