文化的最低限度の食生活のすすめ

 どうしてこんな事になったんだろう。名前はそんな事を思いながら、先程手にしたドレッシングを陳列棚に戻した。背後に立つ瀬呂はどこか満足げに頷き、こっちならそんなに悪くないからと、某メーカーの青じそドレッシングを買い物カゴの中に入れていく。
 瀬呂くんは、私が紫蘇が好きじゃないことを知らない。サラダだって好きじゃないのに。「ついでだし、野菜も見てこうぜ」


 事の始まりは数週間前、偶然スーパーマーケットで顔を合わせた事から始まる。
 クラスメイトの瀬呂範太は、名前の姿を見とめると、「よお名字」と手を振った。
「瀬呂くん」
「名字も買い物か。一人暮らしだっけ?」
「うん。瀬呂くんも?」
「俺も。今日は……キャベツが……」
 安いぜ、と、瀬呂は言おうとしたのだろう。確かに、その日はキャベツの特売日だった。普段であれば一玉100円くらいするキャベツが、その日に限っては78円とかなりお値打ちだったのだ。名前も朝方、折込チラシでそれを確認している。記憶力は良い方だ。
 瀬呂は眉根を寄せていた。「名字それマジで言ってんの?」

 名前は首を傾げた。瀬呂が何を指して言っているのか、さっぱり解らなかったからだ。というか、名前はまだ何も言っていない。
 無言になった瀬呂を訝しく思いつつ、彼の視線の先を追う。瀬呂が見詰めていたのは、名前が手にしていた買い物カゴだった。
 その日名前が買ったのは――正確には買おうとしていたのは――各種カップラーメン、それからいくつかの調味料だった。何か問題があるのかと首を傾げれば、瀬呂の顔は言いたげだった。問題しかないと。
「あー……何つーかアレ? 保存食用?」
「えっ? ううん。あっ、瀬呂くんこれ美味しいよ、おすすめ」
 そう言ってお気に入りのカップ麺を差し出せば、瀬呂の笑みが固まった。もっと言うと、彼の頬がひくりと痙攣したのを、名前は確かに目撃した。

 瀬呂は、決して名前に買うものを強制したりはしなかった。ただ、そっちよりもこっちの方が良いと薦めただけだ。彼があんまり悲しそうにするので、特に拘りのあるわけじゃない名前としては彼の薦めに従った、ただそれだけだ。
 しかしながら、それ以来、住んでいる場所が近いこともあって、瀬呂はたびたび名前の買い物についてくるようになった。こっちの野菜の方が無農薬で安全な筈だの、そっちの食品は発がん性物質のある保存料が使われてるだのと言われながら店内を歩くのは、なかなかいい気がしない。おかげで最近、名前は大好きなカップラーメンにありつけていなかった。
 一緒に暮らしているわけでもなし、彼に逐一「今から買い物いく」などと報告せずとも良いのだが、以前何も言わずに買い物をして、スーパーで会ったことがあったのだ。あの時は気まずかった。


 名前の話――殆ど愚痴のようなものだが――を聞いていたお茶子は、「それは束縛系彼氏というやつでは」と思ったが、結局口を出さなかった。そもそもにして名前と瀬呂は付き合っていなかった筈だし、お茶子とて名前の食生活に疑問を抱いていた一人だったからだ。最近では自分で弁当を作ってきているようだが、いつぞやはずっと同じ菓子パンを食べていた。楽だし美味しいからと。
「それ美味しそう、購買のやつ?」
「うん。名前ちゃんも食べてみる?」
 にっこりと差し出される苺クリームの詰まった菓子パン。名前は手を伸ばそうとしたが、直前でそれを引っ込めた。「アスパルテーム……」

 お茶子の背後に立っていた瀬呂は、眉根を寄せそう呟いていた。ヒーロー基礎学の時だって、彼はこんなに険しい表情をしない。
「やめとく〜」
 名前がそう言ってお茶子に笑えば、彼女も苦笑いで返してくれた。瀬呂は満足そうに頷き、その横に立つ切島達は皆苦笑を浮かべていた。
 瀬呂はランチラッシュお手製の定食を手にしていた。彼の作るものなら安心安全という事だろうか。
「弁当作ったんか名字、偉いぞ」
「わあ。瀬呂くんに褒められてうれしい」
 棒読みでそう口にした名前だったが、瀬呂は頓着しなかった。自分で作るのが一番だからなと彼は笑う。
「でもそろそろ面倒臭くなってきました、名字名前明日から購買組になります」
「名字が極端過ぎんだよ、食堂で買えばいーじゃん」
「高いし量多い」
「贅沢だなー」
 からから笑う瀬呂に、名前は段々腹が立ってきた。別に強要されているわけではないけれど、誰のせいで健康的な食生活を送らされているのかと。よくよく見てみれば、瀬呂こそ定食を手にしていたが、その隣の切島は既製品のパンを買っているではないか。
「あーもう。じゃーもう瀬呂くんが私のご飯三食作ってくださーい」名前が言った。

 しんと静まり返る周囲に、名前は自分が何を口走ったか、思い出すのに時間が掛かった。瀬呂は目を丸くして名前を見ているし、向かいに座っているお茶子が「名前ちゃん大胆やねえ」と呟いたのが聞こえてきた。
 いま、私、大分アレな事を言ったんじゃないか?
「……よし来た」暫くの沈黙の後、瀬呂が言った。「名字、結婚を前提に付き合ってくれ」


 自分がまんまと嵌められたことを知ったのは、健康的食生活習慣に身を投じてから二十年ほどが経ってからだった。

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