百万回のありがとうを君に

※13号男性設定

 まいった――穴黒央宙は心の中でそう呟いた。
 この日、央宙はいつもの宇宙服ではなく、普段着のまま街を歩いていた。そりゃ、たまの休日にまで、ヒーローで居る道理はない――もちろん、四六時中ヒーロー活動を行っている者も、居ないわけではないのだが。
 雑踏に紛れながら、敵の様子を窺う。どうやら金銭目当ての真っ当な強盗のようで、敵と言うほどでもなさそうだ。しかしながら、追い詰められた人間が何をしでかすか何て、解ったものではない。
 央宙がヒーローとして名乗りを上げない事には三つの理由があった。一つ目は、コスチュームを身に纏っていないこと。二つ目はそもそもにして敵退治に慣れていないこと。そして三つ目は、これだけ大勢の見物人が居て、彼らを巻き込まずに“個性”を使用できるかということ。
 別に、スペースヒーロー 13号の素顔が割れてしまう事に不都合はなかった。そりゃ、バレない方が良いには良いが、人命には代えられない。いくら実戦経験が少ないとはいえ、会敵したことが無いわけでもない。央宙が心配だったのは、誰かに怪我をさせてしまうのではないか、ただそれだけだった。
 出力を弱めれば、拘束するくらいならできるだろうか。
 無意識の内に、右手をやんわりと握り締める。しかしながら、央宙の葛藤は無用の長物となった。颯爽と現れたヒーローが、二分と掛からず敵を制圧したからだ。

 やんややんやの喝采を浴びているヒーローを眺めながら、央宙は一人感慨に耽っていた。敵退治を専門とした、新進気鋭のヒーロー――今、人垣の向こう側に居る彼女は、央宙の元教え子だった。もっとも、クラスを受け持っていたわけではなく、科目で何度か授業を行ったというだけだが。目立つ子だったし、13号にかなり懐いていたので、央宙もきちんと覚えていた。ふと、名字名前と目が合う。
 名前はぱっと顔を輝かせた。「先生!」


 昔こんなヒーロー映画あったよなあと、抱えられたままの央宙はぼんやり考えた。もっとも、抱えられているのはもちろん映画のヒロインで、180センチもある成人男性ではない。身体が向上する“個性”ではあるものの、央宙を抱えたまま建物を飛び回る彼女には、尊敬の念を禁じ得なかった。
 人気のヒーローが、一般の成人男性(見物人の反応からいって、央宙が13号だと気付いた者は居なかったようだ)に駆け寄っていく様は、かなり注目を浴びた。変な噂にならなければ良いけど、と、そんな事を思いながら、名前を見詰め返す。
 ビルの屋上に降り立ち、ヒーローとしてのマスクを脱いだ名前は、央宙が知る彼女の顔とは異なっていた。少女らしい面影は消え、敵退治の緊張や興奮が残っているのか、それとも偶然知り合いに会えて喜んでいるのか、彼女の顔は上気している。「お久しぶりです、13号先生!」
「ええ。元気そうで何よりです、名字さん」
 央宙がそう返すと、名前は「覚えていてくださったんですか!」と驚いたように言った。彼女の顔には喜びが滲んでいるようで、央宙は何となくばつの悪い思いをした。いつものコスチューム姿だったら良かったのに。――そうすれば、央宙の気まずさを気取られることはないだろう。
「もちろん、覚えていますよ」央宙は静かに言った。「君は救助訓練の成績も良かった」
「皆に慕われているのですね。僕も鼻が高いですよ」
「あは、ご覧になっていたんですか、先生」
 恥ずかしいなあと呟く名前の顔は、微かに赤らんでいる。
「加勢できず申し訳なかった」
「えっ? ……ああ、さっきのやつですか? そんなの気にしなくていいのに。ちゃんと敵は捕まえられたからいいんですよ。13号先生って真面目なんですね」
 適材適所っていうじゃないですか、と、名前は笑った。「餅は餅屋に任せておけばいいんですよ」

 何故自分を連れてきたのかと問えば、一言礼を言いたかったからだと、名前は言った。
「お礼?」
 央宙は呟いた。「君が僕に?」
 名前は頷いたが、央宙は彼女が何を指してそう言ったのか、さっぱり解らなかった。央宙と名前はただの教師と生徒で、もっと言えば数回授業を受け持っただけだ。二人が顔を合わせたのは二十回にも満たないだろう。また、彼女が特別央宙と懇意にしていたわけでもなければ、“個性”が似通っているわけでもない。確かに名前は13号を慕っていたようだが、ヒーローに憧れを抱く人間は少なくないわけで。
 名前は照れ臭そうに言った。「私、ずっと先生にお礼を言いたかったんです」

「私、自分の“個性”が嫌いだったんです。まあ、今でも好きじゃないんですけど……もっと可愛い“個性”が良かったなって思ってます。花が出せるとか、声が綺麗とか……でも、13号先生が言ってくれたんです、僕達の“個性”は誰かを傷付ける為にあるんじゃない、誰かを救ける為にあるんだ、って」
 名前は言葉を続けた。「私の“個性”、別に凄くも何ともないじゃないですか。体育の成績は良かったけど……それだけ。子供の時、力加減を間違えて友達に怪我させちゃったことがあるんです。それからずっと嫌いでした。でも、先生が言ってくれたんです。私の“個性”は誰かを救ける為にあるんだって。それから私、本気でヒーローになりたいって思ったんです」
 雄英受けといて何言ってんだって話ですけど、と名前が小さく付け足す。
「救助メイン、ってわけにはいかなかったですけど……」名前が視線を上げ、央宙の目を見詰めた。「私、先生みたいなヒーローになりたかった」
「13号先生のおかげで私、ヒーローになれたんです」


 だから先生、泣かないで。名前が困ったように言った。彼女の言葉を聞いて、央宙は漸く、自分が涙を流していることに気が付いた。――ああ、やっぱりコスチュームを着たままだったら良かったのに。
 央宙の顔に添えられたその細い手は傷だらけで、央宙はもう一度涙を流した。

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