慈愛の人
巻き上がる土煙と、燻る黒煙。脳裏に浮かぶのは、「大丈夫か!」という大きな声だけだった。
くんっと、言葉通り後ろ髪を引かれ、茨は思わずたたらを踏んだ。恐る恐る後ろを振り返れば、ぴんと伸び切った髪の先に、見知った男子生徒が居た。名前も茨と同じように、目を真ん丸くさせている。
「す、すみません」
「いや俺も悪い。えーっと……塩崎、さん」
で合ってたっけ、とどこか不安そうに尋ねる名字に、茨は驚きつつ頷いた。以前から彼の事を知っていた茨ならともかく、何故名前は自分を知っているのだろう。
ごめんなと再び口にする名字は、困ったように自身の袖口に目をやった。先程擦れ違った時、茨の髪が、名前の制服の釦に引っ掛かってしまったのだ。二人は繋がったまま、取り合えずと人波を避けるように、廊下の端に寄る。
「ほんとごめんな、ぼーっとしてた」
「いえ……」
ぼうっとしていたのは茨の方だ。普段であれば、髪を引っ掛けてしまう事など有り得ない筈だった。
茨――その名の通り、茨の髪は植物のツルのようなもので出来ている。自分の“個性”が嫌いなわけではなかったが、時折とてつもなくおぞましい物に感じることがあった。
まさに今がそれだ。高校生にもなって、他人の服に引っ掛けてしまうなんて。誰かを傷付ける為にあるのではないのに。
茨が自己嫌悪に浸っていると、不意に名前が袖に結ばったイバラに手を伸ばした。ぎょっとする。「だ、大丈夫です、すぐ取りますから!」
目を上げた名前と、視線が交わる。
「や、大丈夫だよ」
心配しないでとでも言うように、名前は笑った。そのまま彼が茨のツルをそっと触るので、茨は何も言えなくなってしまった。
名前は茨の髪の感触を確かめるように一、二度優しく引っ張った。それからツルの先端を掴むと、勢い良く腕を上に上げる――ぶちっという鈍い音は、茨の髪が切れた音ではなく、名前の袖の釦が引き千切れた音だった。
唖然とする茨を前に、ほら取れたとでも言うように名前が笑う。彼の手からは傷一つ付いていない、茨の髪がこぼれ落ちていった。金の釦だけが残る名前の掌に、所々赤く血が滲んでいたのを、茨は確かに目撃した。
「ありがとう、ございます……」茨が言った。「でもその、わざわざボタンを取って頂かなくても、私が自分で取ることができたのですが……」
不思議そうにする名前に、茨は自身の髪を少しだけ動かしてみせた。ツルの形状をした髪は茨と一心同体で、自在に動かすこともできれば切り離すことも可能だった。
「あ、そうだったの」
「ええ……すみません、言うのが遅くなってしまって」
茨がそう呟くように言うと、名前は笑った。
「そんな気にしなくて良いって。それに、女の子に髪切らせるわけにいかないでしょ」
入試で高い順位を取っていたから、はっきり覚えていたのだと、名前は笑った。
茨がツルを引っ掛けてしまったあの日、二人は友達になった。気さくな名前は茨を見ると声を掛けてくれ、茨もまた彼を見掛けると、少しずつだが話し掛けるようになった。同じヒーロー科ということもあって、帰りが一緒になる事もままあり、彼と二人で帰る最寄り駅までの僅かな時間が、茨にとってとても楽しみなものとなった。
「それを言うなら、名字くんだって10位だったじゃありませんか」
「俺のと塩崎さんのは全然違うよ。俺、殆ど敵Pだったじゃん」
明るく笑う名前に、それを言うなら救助Pのみだった緑谷出久の方がより優れているのではないかと思ったが、結局茨は口にしなかった。「塩崎さんは俺も救けてくれたし……」
「それにほら、“いばら”って女の子っぽくて良い感じじゃん」
「そうでしょうか……」
「そうでしょうよ」
茨が眉を下げると、そんな茨の様子を敏感に察知したのだろう、「気に入ってねえの?」と不思議そうに問い掛ける。
「“個性”と合ってるし、響きも良い感じだと思うんだけど」
「いえ、決して嫌いなわけではないのです。ただ……」
――もう少し可愛らしい“個性”だったら良かったのにと、思うことがあった。
茨の両親は共に植物系の“個性”だったが、どちらも茨の持つものとは微妙に違っていた。父は植物の成長を早める“個性”、母は薔薇を咲かせる事ができる“個性”――髪がイバラで出来ているのは茨だけだったし、一輪も咲かせる事ができないのも茨だけだった。
茨という名も、もはや柵でしかない。
口を噤んだ茨を見て、名前は色々と察したらしかった。俺ももうちょいかっこいい顔に生まれたかった、などと見当違いなことを呟く。
「まあでもホラ、いーじゃん、可愛い薔薇には棘があるって言うっしょ?」
「……それを言うなら、綺麗な薔薇では……」
茨がそう小さく言うと、名前はきょとんとし、それから微かに笑った。俺からしてみれば塩崎さんは可愛い系だから、それで良いんだよと。
「名字さん……!」
背後から起きた突然の大爆発に、思わず手を伸ばす。一瞬、名前は迷った素振りを見せたものの、茨が差し伸べた手を力強く掴んだ。茨は名前を引き寄せると、すぐに切り離した大量のツルを地面から生やし、爆風から身を守る。物間は良い顔をしないだろうが、致し方ないだろう。
吹き飛ばされたり、別の地雷を起爆させることもなく、ほっと息をつく。ふとずっと名前の手を握っていたことに気付き、「大丈夫でしたか?」と問い掛けながら、それとなく手を離した。
名前は爆発が起きた方を眺めていたが、やがて茨を振り返り、また救けられちゃったなとどこか恥ずかしそうに呟く。ありがとう、と笑う名前に、茨は漸く決心が着いた――この体育祭が終わったら、あの時助けてもらったお礼を言おう。それから、ずっと助けてくれてありがとうと改めてお礼を言おう。
多分あと少しですよ、そう茨が笑えば、それまで体力が持てば良いけどと、名前は疲れたように苦笑した。
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