冬はつとめて

 冬は朝がいいんだっけ。名前が思い出したように口にした。
 日は殆ど沈みかけていた。影が世界を覆い始め、ゆるやかに、それでいて瞬く間に夜がやってくる。マフラーから覗く名前の鼻先は、常と同じくつんと上を向いていて、血管がこれでもかと拡げられているのが見て取れた。きっときんきんに冷え切っているのだろうなと考えながら、ポケットに仕舞い込んだ手の指を曲げ伸ばす。
「清少納言か」
「春はあけぼの、は解るんだけどなあ」
「名字の場合、春眠暁を覚えずだろ」
「どういう意味?」
 ちらっと此方に目を向ける名前。彼女がいつものような強気の態度を取らないのは、偏に轟が彼女の勉強を見てやっているからに他ならない。早々に進路を決めた轟と違い、名前には未だ受験が控えていた。

 図書室の閉館時間ぎりぎりまで――もっとも、中学の閉館時間などたかが知れていた――粘り、それから揃って学校を出て、二人で帰るのが近頃の通例になっていた。冬美に勉強を見てもらう事ができれば、恐らくそれが一番効果的なのだろう、と考えないこともなかったが、兄や姉ならともかく、父親に名前と一緒に居るのを見られるのは避けたかった。だから、名前は轟の姉が他の校区で中学校の教師をしている事を知らない筈だ。もっとも仮に知っていたとして、冷え切った親子関係を知っている名前が、轟の家に行こうと思うかどうかは、また別の問題だったが。
「あーでも、朝に布団でぬくぬくしてるのはやっぱ冬が一番かも」名前が言った。
「春はちょっとあったかすぎるし、夏はクーラー効いてる中で布団被って寝るのが最高だよね。秋はどうだろ……」
「それから冬眠するわけだな」
「それどういう意味? 口語訳でぶっていいよって事?」
 降参の意味を込めて「いや」と呟けば、「轟くんて頭良いのに情緒ないよねえ」と、彼女は訳知り顔で言ってみせた。そんな情緒ある名前は、轟から視線を外すと、両手を重ねて口元へ近付け、はあっと息を吹きかける。
「そんなに寒いか?」
「えぇ……今日だいぶ寒いよ? 轟くん寒くないの」
「名字ほどじゃねえな」
「そっかあ……」
 私はあったかい方が好きだなあと、そう静かに口にする名前に、「手、繋ぐか」と声に出して言ってしまったのは、彼女の指の先が赤く縮こまっていたからであって、特に他意があるわけではなかった。

 目を細め、微かに開いた口をへの字に曲げる名前――端的に言えば引き気味に自分を見る名前に、轟は少々むっとした。
「轟くんがどれだけカッコ良かろうと、言って良いことと悪いことがあるよね」
「どうせ誰も見てねえよ」
「それはそうだけども……」
 轟が黙って左手を差し出すと、名前は驚いたように轟を見上げた。轟が右手でなく、左側を差し出したのが意外だったのだろう。
 おずおずと差し出される手を掴めば、思っていた通り、彼女の手は氷のように冷え切っていた。徐々に左手の体温を上げていけば、強張っていた彼女の表情までも、ゆるやかに溶けていく。
「あー……あったかー……」
「恐れ入ったか?」
「はいはい入りました」
 名前は空いていた左手も轟の手の甲に重ねた。かなり歩きにくそうだったが、あまり気にならないらしい。
「あれだね、一家に一台轟焦凍って感じだね。三種の神器的に」
「意味解んねえよ」
「夏は冷却、冬は焼却……」名前が言った。「いいなあ轟くん」
「轟くんうちの子になろ? そしてうちの家計を助けてよ」
 笑顔でそう口にする名前に、轟は眉を顰めた。少しカイロ代わりになってやったくらいで、現金過ぎやしないだろうか。しかも、今度はエアコン代わりにするつもりらしい。
 しかしながら、「名字焦凍になろ」という彼女の言葉に、轟は自分の中で、俄かに何かが沸き立つのを感じた。きっと彼女にとって、その言葉は、轟が“個性”で寒がる彼女を暖めようと手を差し伸べたことと、ほぼ同じようなものなのだろう。――特に、他意があるわけではないのだ。


「あっつ!」
 飛び跳ねる名前に、慌てて左手の温度を下げる。「悪い」
 考え事してたんだ、と口にすれば、彼女は恨みがましげに轟を見た。どうやら軽く火傷をしてしまったのか、名前の手は先ほどまでとは別の意味で赤くなっている。冷やしてやろうかと右手を差し出せば、彼女は「いらないです」と口を尖らせた。しかしながら、一度離した手を再び伸ばしてくるあたり、どうやらカイロ代わりにはなれたらしい。
 慎重に温度を調節しながら、そっと名前の手を握る。
「俺、冬のが好きかもしんねえ」
 轟がそう呟くと、名前は「じゃあ今度からヒーターって呼ぶね」とにこやかに笑った。やめてくれ。

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