いびつな男

 自身の顔を見詰めながら、ふふふと笑いを漏らす敵に、名前はますます身を捩った。もっとも、両腕と左足を根元まで呑み込んでいるゲートはかなり狭く、身動きはほぼほぼ取れなかった。体を逸らせば何とか抜けられるのかもしれないが、生憎すぐ後ろには壁が迫っていたし、そもそも黒霧に抱き寄せられている今の状況では、どだい無理な話だろう。唯一自由である筈の右足も、目の前の敵にしっかと抱えられている。もしかしたら、傍目から見れば恋人がいちゃついているように見えるかもしれない。
 くそ、と名前は内心で毒づいた。
「いやあ……私は自分のことを、割とノーマルだと思っていたのですが、こういうシチュエーションもそそられますね」黒霧が言った。その声はどこか弾んでいる。
 異形型ゆえにはっきりとは解らなかったが、どうやら黒霧は笑っているらしかった。仄かに発光している金色の目は、ゆうらりと弧を描いている。
 ――両手両足を使えなくさせているというこの状況のことか、それとも惚れた女に殺したいと願われていることか、名前には彼が何を指しているのか判断が付かなかった。もっとも、最初から理解したいとは思っていなかったが。


 かつてヒーローとして名を馳せていた名前だが、近頃妙な奴に目を付けられていた。敵だ。
 一定のヒーローに付き纏う敵というのは、さほど珍しいことではない。仲間を捕まえたからだとか、自身の活動領域内で障害になるからだとか、著名なヒーローを倒して名を上げたいからだとか、理由は様々だ。しかし、この黒霧という男は、それらとは毛色が違っていた。

 最初は、気のせいだと思っていた。時折感じる視線は、熱狂的なファンのものなのだろうと。しかしながら、それは次第にヒーローとして活動している時以外にも感じられるようになり、ひどい時では四六時中誰かの視線を感じていた。黒霧が直接接触を図ってきた時もまだ、性質の悪いストーカーとしか思わなかった。
 ――あなたのファンなのです。と、男は言った。
 黒霧と名乗るその男は、それからちょくちょく名前の前に姿を現した。黒霧は基本的に、名前が普段着で居る時に現れた。恐らく、自分が名前がヒーローであると気付いているという、優越感に浸りたかったのではなかろうか。行く先々に現れる事や、素顔を知られている事など、ひどく薄気味悪かったが、ヒーローとしての自負が、ただのストーカーくらいどうにでもできると判断した。
 実際、黒霧は別段何もしなかった。本当に、単に情熱的過ぎる名前のファン、ただそれだけだった。ちょっとストーカー気味なことを除けば、その丁寧な言葉遣いや、柔らかな物腰、そしてそのスタイルの良さ等が相俟って、こういう男に好かれるのも悪くない、そう思っていた。

「ああ……言っていませんでしたっけ、私の“個性”、ワープというんですよ」
 ぴっぴと右手を振りながら、黒霧が軽やかに言った。その直前に人を殺しているとは思えない爽やかさでだ。彼の右手から、溢れ出た血液が――黒霧のものではなく、名前の横で息絶えている見知らぬ男の血液が――飛び散っていく。「テレポートとは少々違いましてね。こうしてゲートを指定することで、対象を行き来させることができるようになるのです。なかなか便利ですよ。ゲートを大きく作れば大人数でも移動が可能ですし、こうしてゲートを閉じることもできます。人殺しに向かないのは、まあ難点ですが……私の中が血やら臓物やらで一杯になるのでね。ですが、これであなたと二人きりになれるのなら安いものですよ」
 彼の言うワープゲートに足を取られていた名前は、男の頭が宙に消え、そのまま切断されるのを黙って見ているしかなかった。男の体は血を噴出しながらばったりと倒れ、それから身動ぎ一つしなかった。少し遅れて背後からごとっという音がしたが、名前に話し掛けていた男の頭部が落ちた音だということを、名前は後から知った。
 ――名前が身動き一つ取れなかったのは、決してゲートに足を取られていたからでも、身が竦んでいたからでも、ましてや黒霧がこんな凶行に及ぶのが予想外過ぎたからでもなく、ただただ単純に、これほどまでに何の躊躇いもなく人を殺す人間が存在することを知らなかったからだ。
 それからは地獄だった。街中だったせいもあって、他にも人が居たのだ。ギャラリーが多くなった為、黒霧は瞬く間に姿を消した。名前は殺しを止められなかった無能なヒーローの汚名を着せられ、それどころか本当は敵と通じているなどと嘯く者まで現れた。名前の人気は地に落ち、ボランティア的な仕事すら回ってこなくなった。後ろ指を差され続ける名前が、黒霧を捕まえようと躍起になるのも、当然の話だった。


「どうです名前さん、そろそろ私の所へ来ませんか」
 大切にしますよと笑いながらそう口にする黒霧に、名前は身を捩らせることでそれに応えた。やはり抜け出すのは難しそうだ。名前は元々敵退治を専門としたヒーローだったが、“個性”は手で触っていなければ使えない発動型だ。右手と左手がどこに飛ばされているのか解らない今、黒霧を退けることは殆ど不可能だった。
 手さえ自由だったら、こんな奴どうにでもしてやるのに。
 もっとも、黒霧が本性を現してからというもの、名前と黒霧は幾度と無く邂逅を果たしていた。それでも名前の人気がそのままで、黒霧が自由を謳歌しているあたり、二人の力の差は明らかだ。しかしながら名前には、黒霧を捕まえる道しか残されていない。

 黒霧は、敵連合と自称する組合に、名前を引きずり込もうとしていた。あの、ヒーロー殺しが属していた集団だ。そこでなら身の安全も保障するし、自分も一緒に居られるからと。クソ食らえだ。
 返事をしない名前を見て、黒霧は「やはり頷いては頂けませんか」と静かに言った。残念がっているようでも、怒っているようでもなく、一足す一は二だったというごく当たり前の事を口にしているような、そんな声だった。
「解っているなら聞かないでちょうだい」
 名前が口にすると、「おや、今日はおしゃべりして頂けるんですか?」と黒霧が言った。先程と違い、声に喜色が滲んでいる。「そうですねえ……万が一ということもありますからね」
「それに、どちらかというと私は貴方を本心から私達の仲間に誘っているわけではないのですよ。もちろん敵連合に入って頂けるならそれ以上に嬉しいことはないですし、あなたを拘束して、ずっと傍に居ることを考えないわけではないのですが……」

 黒霧が名前の腰元をするりと撫でた――名前が本気で抵抗しないのは、ワープゲートが狭すぎて身動きが取れないからではなく、目の前に立っている敵がその気になれば一切の躊躇なく人を殺せる事を知っているからだ。名前は今、喉元に手を掛けられている。「以前申し上げた通り、私はあなたのファンでして」
「あなたがヒーローで居て下さる限り、私は敵で居られるのです」
 ずっと私だけのヒーローで居て下さいねと、黒霧は歪に笑った。

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