恋情にピリオドを

 部屋にノックの音が鳴り響き、天哉は何となく居住まいを正した。今日は、父も母も来られない筈だ――そういえば、兄を見舞っている最中に、家族でない他の誰かと鉢合わせしたのは、もしかすると初めてかもしれない。インゲニウムとして公表しているわけではないから当然の事なのかもしれないが、聊か複雑な気分だった。もっとも、こんな雨の日に見舞いにくるというのも奇特な話だが。
 どうぞと天晴が口にし、病室の戸が開く。顔を覗かせたのが女性だったので、天哉は少しばかり意外に思った。

 歳は三十台前半といったところか。お姉さんと呼ぶには少しばかり躊躇し、おばさんと呼ぶには早過ぎる、そんな具合だった。化粧は薄く、それどころか目の下には疲れが溜まっているのか、微かに隈が浮かんでいるのが見て取れた。しかし、背筋は凛と伸びている。
「何だ、また来たのかよ」天晴が言った。
「ちゃんと仕事しろよ、センセー」
 皮肉の効いた、ともすれば批判的にすら聞こえる言葉だったが、天哉は兄の声に喜びが滲んでいることに気が付いた。実際、天晴は笑っている。
 女性は微かに眉を顰め、「弟くんも一緒か」と小さく呟いた後、「君に先生呼ばわりされる謂れはないね」とぴしゃりと言った。どことなく聞いたことのある声のような気がしたが、天哉は思い出せなかった。もしかすると兄の昔からの知り合いで、会ったことがあるのかもしれない。
「天哉の先生なら俺にとっても先生だろ? おかしくないさ」
「先生といっても、私は彼を受け持ってないよ」
「そうなの? 1年担だろ?」
「受け持ちは普通科なんでね。英語のクラスも違う」
 ヒーロー科は全員特進コースだったろ、と女性に突然振られ、天哉は動揺した。えっ、と声にならない声が漏れる。
「君、確かA組だったろう? ヒーロー科は全員マイクが受け持ってた筈だ」
「マイク……プレゼント・マイクか!」
 ぽんと手を叩いた天晴に、女性が頷いた。状況が呑み込めていないのは天哉ただ一人だ。「ええと……」
「まあ……他所のクラスの担任なんて知らんわな。D組担任のサブリミナルだ」

「……えっ、名字先生!?」
「そうだよ」
 潜在ヒーロー サブリミナル――名字名前は小さく頷いてみせると、何度か学校で擦れ違ったことあるよ、と静かに口にした。


 リハビリの調子はどう、と問い掛ける名前を、天哉はまじまじと見詰めた。天哉の知っているヒーローとしての名前と、今の名前はまったく違う。いや、確かに声は同じだし、体格も、凛と伸びたその背筋だって同じなのだが、まさかこんなところで、憧れのヒーローの素顔を見てしまうとは思いもしなかった。
「良い感じさ。今日は一人で車椅子に乗れたぜ」
「凄いじゃないか。無駄に筋肉が付いているだけはあるね」
「無駄じゃねーから」
 ぽんぽんと飛び交う会話に、彼らが気心の知れた仲らしいと解る。天晴は天哉の前では兄たろうとする為か、こんなあけすけな言い方はしなかったし、名前は生徒を慮っているものの常にローテンションで、こんな軽口を叩くキャラではなかった。
 もしかして、二人はそういう仲なのでは――。
「退院まではまだ掛かりそうだな、その様子だと」
「おう……正直出費やべえわ。こんな掛かるとは思わんかった」思わず「兄さん」と呟けば、天晴は肩を竦める。「治療代に食事代、リハビリ代に介護代……」
「おいおい、ファンが泣くぜ、インゲニウム」
 指折り数える天晴に、名前が微かに笑った。「養ってやろうか」

 ぎょっとして名前を見たが、どうやら天晴はまともに受け取っていないようだった。
「随分熱烈だな。フォロワーだったのか?」
「そうだよ。知らなかった?」
 名前は笑ったが、天哉にはもはや、彼らの会話のどこからどこまでが本気なのか、さっぱり解らなかった。唐突に名前に名前を呼ばれ、思わず体がぴくりと反応する。「まあ、天哉くんがヒーローになって稼いでくれるから心配いらないさ」
「相澤くん……天哉くんの担任だけどね、よくやってくれてるって言ってたよ。まあクラス自体が割と無茶をしでかすことも多いようだが……無茶はヒーローの本質だしね」
 天哉は、兄が同意するか、さもなくば一緒になって「天哉に養ってもらうとするか!」などと冗談を言うとばかり思っていた。しかしながら天晴は微かに目を細め、そっちは心配してないよ、と、小さく呟くだけだった。

「というか名字、もう少し早く来いよ。もう面会時間終わるぞ」
 天晴がそう口にした時、ちょうどそのタイミングで、聞き慣れた音楽が流れ始めた。面会時間終了を告げる合図だ。どこか物悲しいその曲の名を、天哉は知らなかった。
「いいんだよ、どうせすぐ帰るし。あ、そうだ、これお見舞いね」
「今かよ!」



 天哉と名前は共に病室を出た。何を話すでもなく、互いにエントランスへ向かう。何を話せばよいのかと聊か気まずさを感じたが、名前の方から天哉に話し掛けてくれたので、その心配は不要となった。「邪魔して悪かったね」
「せっかくの兄弟水入らずだったのに」
「いえ! ご心配なさらず! 兄とは普段から連絡を取っていますので!」
「そう」
 名前の声が存外優しげだったので、天哉は思わず「先生は、兄とお付き合いなされているんですか」と尋ねてしまった――一番気になっていたことだったが、一番口に出しづらいことでもあった。名前が目を細める。
「そう見えたの?」
「いえ、そういうわけではなく……」
 名前は暫くの間何事かを考えているようだった。「私と彼は同期でね」
 インゲニウムは友達であり、戦友であり、私の大好きなヒーローなんだよと、彼女は静かに言った。

 病院を出たら別れようと思っていたのだが、「乗ってくだろ?」と尋ねられ、天哉は困ってしまった。
「高校生には電車代だって痛いんじゃないか。この雨の中、走ってくってわけにもいかんだろ」
「ですがサブリミナル先生――」
 唇に細い指が触れ、思わず口を閉ざす。「この格好の時は名字先生で頼むよ」
 サブリミナルというヒーロー名に、僅かに注目を浴びたが、どうやら名前がそのサブリミナルだとは誰も気が付かなかったようだった。そりゃ、フォロワーの天哉でさえ解らなかったのだから当然だ。それでどうする、乗ってくかいと見上げられ、天哉は黙って頷くしかなかった。


 時折行き先を指し示しながら、名前の言葉に耳を傾ける。ローテンションなヒーローだと言われていたが、どうやら気を使ってくれているのか、名前は天哉に色々話し掛けてくれた。授業は辛くないかとか、学校は楽しいかだとか。
 断られると思っていたよと、名前は言った。
「飯田くんみたいな真面目な子は、普通こういう場面、遠慮して断るだろ?」
 何か悩み事でもあるのかなと尋ねる名前は、確かに教師のようだった。「友達に言い辛ければ相澤くんに言えばいいし、相澤くんに言えなければ他の誰かにでも良い。親御さんでも、他の先生でも、私でもね」

 悩み事が無いわけではなかった。しかしながら、それをするすると言ってしまったのは、彼女の“個性”のせいだったのか、それとも本心が漏れ出てしまったせいなのか、よく解らなかった。
「……先生は、僕がインゲニウムになったら僕を見てくれますか」


「は?」名前が問い返した。
「あっ、やっ、違っ」
 天哉は焦る。兄のようなヒーローになれるかという不安、インゲニウムという名を背負うことへの重圧、そして名前への恋慕、それらが綯い交ぜになって、一度に出てしまった。名前は前を向いたままだったが、それでも天哉の手は動きっぱなしだ。「インゲニウム、そう、兄のようなヒーローになれるかと不安でして! 決して邪な感情ではなく!」
 墓穴を掘った。
 そう思ったが、全ては口から出た後だった。いつでも誠実なサブリミナルにヒーローとして憧れていたことも、仄かに恋情を抱いていたことも、そんな名前が実は兄と知り合いで、その仲の良さに嫉妬してしまったことも、紛れも無い事実だった。しかし、天哉はそれを口に出す気はさらさらなかった。神聖な学び場で不純な思いを、しかも教師に抱いているなんて。更にはそれを、気付かれてしまったなんて。
 名前が何も言わないことが、天哉の罪悪感と羞恥心にますます拍車を掛けた。顔が熱くなってゆく。いっそこのまま放り出してくれないかと思ったが、名前は天哉を家まで送り届けてくれた。
 別れ際、「いつでも見てるよ」と名前が静かに笑ったので、今度こそ天哉は死にたくなった。それでも名前の綺麗な笑い顔が、目に張り付いて消えなかった。

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