焦がれるヒスイ

 ぎょっとした顔をして自分を見る心操に、名前は内心で首を傾げた。寝癖でもついていただろうかと、有り得ない想像をする。液体人間の名前にとって、髪を乾かすだとか、付きっぱなしの寝癖だとかは無縁の代物だった。
「おい名字、ついてるぞ」
 ――しかしながら、どうも俺は“つ”いているらしい。

「やだなあ心操……憑いてるとかやめてよ、怖いな」
「違え」胡乱げな眼差しで、心操は名前を見ている。「頭見ろ頭。頭の後ろ」
「頭?」
 彼の言葉通り、何の気無しに後頭部へと手をやる――すると、触れる筈もない糸の束のような感触が、指の先から伝わってきた。ヒヤッとする。まさか、本当に何か憑いているんじゃ……目をぐるりと後ろに回せば、ガラス球のような大きな目玉と視線がかち合った。
「――なんだあ、蛙吹さんかあ」
 ほっとして胸を撫で下ろせば、名前の背に抱き着いていた蛙吹梅雨は、「バレてしまったわね」と悪びれもせず口にした。


 行き交う生徒達が皆振り返って名前を見るのは、名前が流動体の異形型“個性”の持ち主だからでなく、単にその背に女子高生を背負って闊歩しているからだろう。もっとも、蛙吹を背負ってこうして歩くのは、別にこれが初めてではなかったが。
 じりじりとずり落ちてきた蛙吹を、スカートがずれないよう気を付けつつ背負い直す――名前は元々触覚が鈍く、今でさえ本当に彼女を背負えているのかどうか、微妙に実感がなかった。蛙吹が身動ぎした事はかろうじて解ったが、彼女がどのくらいの強さでしがみ付いているのかまでは、いまいち解らない。まあ彼女の“個性”からして、落下の心配自体はあまりしなくて良いのかもしれないが。
「蛙吹さん、さっきの心操くんの顔見た? 何だかすごく失礼だったよね」
 ごめんねえと笑えば、蛙吹は小さく喉を鳴らした。
「そんな事はないわ。というより、名字ちゃんが慣れ過ぎてしまっているだけよ」
 心操ちゃんの反応が普通だわと続ける蛙吹に、名前は再び笑った。
「でも、言ってくれないと、俺いつまでも気付かないかもよ?」
「確かにね」蛙吹が小さく言った。「でも、それはそれで楽しいかもしれないわよ」
「そう?」
「そうよ」

 蛙吹梅雨が名字名前の背に張り付いたのは、名前が蛙吹を背負ってA組へと向かうことと同じように、今回が初めてではなかった。彼女の“個性”は蛙――乾燥に弱い本来の蛙と同じように、蛙吹もまた乾燥を不得手としていた。もっとも本物の蛙と違い、彼女の場合は“個性”としてその特性が似通っているだけであって、異形型ではない為干乾びてしまうということはないのだが、それでもやはり、からからに乾いてしまう事への恐怖は拭えないらしい。
 名字名前は、液体人間である。生まれた時から人の形を象った液体として生を受けた名前は、正真正銘の液体人間だった。出産時は相当な騒ぎになったらしい。そりゃ、目も鼻も口もさっぱり見分けのつかないスライム状の何かが自分の赤ん坊だと言われれば、誰だって気絶するだろう。
 ――癒される、と、蛙吹は言う。
 液体の名前に張り付いていると、適度に潤って気持ちがよいのだと。名前の傍が一番落ち着くのだと。名前としては、自分の頭で彼女の顔や髪を濡らしてしまうのは本意ではないのだが。余談だが、名前の体は成分的にはミネラルウォーターに近いらしい。もっとも、触っていてミネラルを補給できるわけでも、マイナスイオンが出ているわけでもないが。
 気付けば、背中に張り付いている蛙吹をA組の教室まで送る事も、すっかり日常と化していた。

 さー着いた、と、名前はA組の前で立ち止まる。どうやら蛙吹の失踪を気に掛けていた者も何人か居るらしく、彼らは名前達の姿を見とめると、「ああまたD組へ行っていたのか」と呆れたように苦笑を浮かべた。先程、蛙吹は「名前が慣れ過ぎてしまっているだけ」と評したが、彼らも大分慣れている。普通、同級生の女子が他のクラスの男子に背負われて現れたらもっと驚くだろうに。
 「おかえり梅雨ちゃん!」と出迎えた切島鋭児郎も、そんな人間の一人だった。初めて名前が蛙吹をおんぶしたまま現れた日、彼は仰天し過ぎて、暫くの間身動き一つ取れなかったというのに。月日は人を変えるのだ。
「ほら蛙吹さん、着いたよー」
「……ゲコ」
 蛙吹は小さく喉を鳴らしたきり、名前の背から降りようとしなかった。振り落とすわけにもいかず、仕方なく名前はそのまま佇む。もうすぐ昼休みが終わってしまうなあと、ぼんやり考えていると、そんな名前達の様子を見てだろう、切島がますます苦笑を浮かべた。
「何か、毎度毎度申し訳ねーっつーか……遠かったろ」
 平気か?と首を傾げる彼は、明るい髪色(どうやら地毛ではないらしい)に反してかなり良い奴だ。普通科の名前にも偉ぶったりしないし、こうして気遣ってくれる。
「蛙吹さん軽いから全然平気だよ」
「男らしいぜ名字!」
 くっと男泣きのようなポーズを取ってみせた切島は、ふと気付いたように、「そういや名字、梅雨ちゃんと仲良いのに梅雨ちゃんって呼ばねえんだな」と言った。
「うん?」
「ホラ、梅雨ちゃんて名前呼び派だろ?」
 切島は名前を見ながらそう口にしたが、どうやら名前を通して蛙吹の方を見ていたようで、肩口から「そうね」と声がした。「お友だちには名前で呼んで貰いたいと思ってるわ」
 ――言われてみれば、確かに蛙吹のことを「梅雨ちゃん」と呼んでいる生徒は多かった。名前が属しているD組はともかく、A組の面々は大体梅雨ちゃんと呼んでいるのではなかろうか。

「じゃあ、俺もこれから梅雨ちゃんって呼んで良い?」
 名前がそう口にすると、蛙吹は暫くの間無言を貫いた。彼女の大きな目は、じいと名前を見詰めている。ゆらゆらと揺れる名前の皮膚を反射して、よりいっそう硝子球のようだ。
「……別に、そう呼びたいなら構わないけれど」
 不意に蛙吹が背中から降りた。ぴょこんと可愛らしい音がしそうなくらい、軽やかな身のこなしだった。「私、別に名字ちゃんとお友だちになりたいと思っているわけじゃないわ」


 じわじわと色付いていく蛙吹の頬に、名前は遅まきながら理解した。なるほど。「それじゃあ、またね、蛙吹さん」と名前が口にすれば、焦ったように二人を見比べていた切島も察したのか、「男らしいぜ名字!」と今度こそ男泣きした。

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