英雄の条件

 生きながらにして焼かれているかのような凄まじさだった。
 ――肩を貫かれる痛みに呻きながらも意識を失えないのは、ここで気絶するが最後、この世に別れを告げる事になると、本能がそう察知しているからなのだろうか。苦痛と恐怖とに屈しながら、名前は自身に覆い被さる男の正体にようやく気付く。幾重にも巻き付けられた赤い襤褸布、大小様々な刃物類。
 ステインと呼ばれるヒーロー殺しが今、名前を見下ろしじいと目を細めていた。


 何の変哲もない、普通の日だった。名前のような一般人にお似合いの、至って普通の日だった。普通に起きて、普通に朝ごはんを食べて、普通に仕事をして、普通に帰路について――ヒーロー殺しと呼ばれる男に会うまでは、確かに普通の日だったのだ。
 ヒーロー殺し。その呼び名の通り、ステインという名の敵は今までに何人ものヒーローを再起不能にしてきた。ある時は大怪我を負わせ、時には殺し。ヒーローや警察の捜査網を掻い潜り、世を騒がせ続ける神出鬼没のヒーロー殺しは、今までに数十名のヒーローの命を奪ってきた。近頃では、ヒーロー殺しが居るからこそヒーローの危機意識が上がり、犯罪率が下がっているのだなどと声高に言う者も出てきていた。もっとも、犯罪率低下に貢献していようとしていまいと、人殺しには変わりがない。

 ――名前は、ヒーローなどでは決してなかった。どこにでも居る、普通の人間だ。むしろヒーローなんて、今まで生きてきた中で実際に見た事もなければ会った事もなく、せいぜい敵退治を遠目に見た事があるかないかというところだ。しかしどういう訳か今、ヒーロー殺しと呼ばれる敵にナイフで肩を突き刺されていて、勘違いでなければ殺されそうになっている。
 名前は何度も大声を上げていたが、路地の奥深くまで連れ込まれているせいで、救けは期待できなかった――肝心な時に、ヒーローは救けに来てくれないのだ。
 ステインがぐりりとナイフを動かし、名前の肉が鋸のような刃で抉られるのが解った。新たな痛点が刺激される。再び悲鳴を上げれば、ヒーロー殺しは満足げに息をついたようだった。「痛いか?」
「痛みを感じるのは、おまえが生きているからだ」
 ずいと顔を近付け、呟くようにそう言ったステインは、やがて再びハァと息を吐き出した。生温かな風が、名前の頬を撫でていく。興奮していると言うには物足りず、落胆していると言うには不釣り合いなその溜息は、名前を怖がらせるには十分だった。

 痛め付けられて、殺されるのか――その時、べろりと目尻を舐められた。視界を遮っていた血液がいくらか拭われ、反対に男の長い舌が赤く染まっているのが目に付いた。先程までのような苦痛ではなく、嫌悪感や恐怖感から、新たに涙が滲み出す。
 なんで、と呟くと、口の端から鉄の味をした液体が、ゆるりと伝っていくのが解った。



「何で?」ヒーロー殺しが初めて感情を露わにした。
 彼の声に、微かな苛立ちが滲んでいたのだ。
「おまえ……ハァ、俺が誰だか知らないのか」
 ステインが言った。不用心な奴だ、と吐き捨てられた言葉には、聊かの呆れすら感じられる。目元から鼻にかけてを巻き物で覆っているせいでいまいち表情は読み取れないが、男の口は小さくへの字を作っていた。実際呆れているらしい。
 しかし、“不用心”とは。敵に一番言われたくない言葉だ。
 肩で息をしている名前を見て何を思ったのか、ステインは僅かに目を細めたようだった。
「おまえ、轢かれそうだった子どもを救けたろう」

「……え?」
 名前は一瞬、痛みも恐怖も何もかも忘れ、ただ目の前の男を見返した。いったい、何を言って――?
「今日の昼……一つ向こうの大通りだったか、子どもが道を飛び出したろう。止まり切れない車が、その子ども目掛けて突っ込もうとしていた。覚えがないのか?」
 ――覚えがない事はなかった。ナイフで肩を貫かれるなどという非日常を前にすっかり忘れていたが、ステインの言葉を合図に、じわじわと昼の出来事が思い返される。
 確かに、三叉路の交差点だった。それで、そう、男の子が、道の反対側に立つ母親に手を振り、勢いよく駈け出そうとしている所だった。車用の信号機は右向きの矢印を表示していて、右折しようとした車は寸でのところで止まる事ができたが、直進しようとしていた車が子供にぶつかりそうになった。
 そして、確かに名前はその子供を救けた。あの程度の大きさのものならさほど無理なく引き寄せられる自信があったし、“個性”使用の許可証こそ持っていないが人命には代えられない。
 しかし、それが何だというのだ。名前の“個性”はあの場で都合の良い“個性”だったし、少しでも救けられる可能性があるなら誰だって救けようとする筈じゃないか。結果的に、ぎりぎりの所で男の子は車を避ける事ができた。二次被害も出なかったし、怪我人の一人も出なかった。
 名前に心当たりがある事を察したのか、ステインがやがて言った。「子どもを救けようとしたのはおまえだけだった」

 他にも人は居たのになと、独り言のように呟くステイン。名前は男が何を言っているのか、さっぱり理解できなかった。彼の言葉をそのまま受け取るなら、名前が子供を救けたから、ステインは名前を殺そうとしている事になる。そんな馬鹿な話があるものか。まさか名前をヒーローだと勘違いしているわけでもあるまい。命からがら子供を救けて、その見返りに殺されるだなんて、そんな馬鹿な話が――。
 ステインが名前の肩に突き刺さっていたナイフを抜き放ったので、違う意味でも何も考えられなくなった。
 名前を縛っていた障害は無くなったが、指一本動かす事ができない。恐怖で身が竦んでいるのだとばかり思っていたが、どうやらヒーロー殺しの“個性”らしかった。相手の動きを制限する事ができるのだろう。
 燃えるような痛みに喘ぎながら、名前は言った。私はヒーローではないのだと。
「……そうだな」暫くの間の後、ステインが言った。そして「ハァ」と小さな溜息。「おまえはヒーローのようなクズではない」


「だがおまえは、あの場の誰よりヒーローだった」
 ぽつりと呟かれたそれは、男が敵でなく、ナイフを振り上げながらの言葉でさえなければ、さながら愛の告白のようだった。ステインの声には、名前を慈しんでいるかのような、そんな響きがあったのだ。もっとも、少しでも苦痛を和らげようと、そう信じ込もうとしているだけかもしれないが。

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